正に、驚天動地と言えよう——裏その弐
—桜咲刹那side—
視界に、ある男性の後ろ姿が映っていた。
そのお姿は誰が見ても、まるで、平凡な一般人にしか見えない事と思う。
だが、それは間違いだ。彼は、一般人などでは断じてないのだ。
なぜならば、私にはその途方もなき実力のほどが、手に取るように理解出来ているのだから。
目を凝らせば、確かに視認出来る。感じられる。
限りなく透明に近く微細だが、身体中から発露されている、絶対の強者の威圧を。
それはさながら、炎天下に昇り立つ陽炎のように音もなく、厳かにして揺らめいていた。
爆発的に蓄積していくまでの高揚感に、打ち震えた。
小林氷咲という男性を、本当の意味で理解出来るものは、この世界に置いて少数に分類される。
それは、同様の悪しき咎を、持ち得ている者だけなのだから。
それは、一つの真実を表していた。
彼の存在や性質を支える資格がある者に、自らの存在は在る、という事実だ。それこそがこの上なく誇らしく、寒々しきまでに嬉しかった。
独りでに、爪先が床を蹴っていた。高鳴る想いに、背中を押されるかのように。
身体も、嘘偽らざる心でさえも、彼という絶対の存在に引き付けられているかのように。
穢れなき白色も似合ってはいた。
だが、これほどまでに妖艶な黒色が似合う男性を、未だかつて見た事がない。
無駄のない細身の体躯はやはり颯爽としていて、魔の匂いは微塵も感じ取れない。異様なまでの清潔感に満ちていた。
気品を感じずにはいられない戦闘衣装を彷彿とさせる、漆黒が、辺りを呑み込むように整合していた。
初めて拝見する服装だが、おおよそ、小林さんの趣向なのだろう。
簡素なワイシャツにジーンズという出で立ちだが、その飾り気のない服装は、逆に人の目を止めてしまうのだ。
魅入られのを抑える事など、不可能だった。元より、抑える気などはないが。
間近にたどり着き、小林さんの反応を心待つ。
だというのにも関わらず、小林さんは黙して身動きを取らなかった。
少々、不思議に思えたが、直ぐに気づけた。
彼を良く知りもしない人達が見れば、気づいていないのではないかと暗愚な言葉を吐くだろう。
だが、それは違う。
相手はあの、小林さんなのだから。
あのエヴァンジェリンさんにさえ打ち勝って見せた、威風を放つ強者なのだから。
それならば、その様子には、何らかの深い意味合いが存在する事は必然と言えた。
純粋な高揚感が、湯水のように湧き出てきた。
それは、彼の真意を慮れるまでに成長した。いや、成長を促されて期待に応える事に成功した自らへの、武者震いのようなものなのだろう。
おおよそだが、理由は違えど、小林さんは新幹線の時と同様に、わざと、その姿をお見せになっているのだ。
どうしてかと問われるならば、一秒たりとも、答えに窮する必要はない。
簡単な、格差と言えよう。私の未熟な実力を背景に、考えて見ればわかる。
どんなに血眼になって探そうとも、どんなに目を皿にして探そうともだ。
まるで、闇を司るかの如き隠密に優れた彼を見つけ出すなど、限りなく不可能に近いのだから。
それならばどうして、その勇姿をお見せになっているのか。
それはつまり、こういう事になる。
わざと姿を見せているのにも関わらず、私達が初めに見つけたかのように振る舞ってくれているという事がだ。
そして、その真意はこうだろう。
一つ目は、私達に自信をつけさせるために、だろう。
修学旅行は、まだ始まったばかりだ。自信とは、これからのモチベーションを高めるために必須なのだ。
二つ目は、私達に何らかの言葉を伝えに来たのだろう。
なぜならば、小林さんの挙動の全てには、奈落のように深い意味合いが存在するのだから。
そして、その思惑に感づく事が、彼により一層の信頼を向けられる結果に繋がり、まだまだ未熟な自らの成長に繋がっていくのだ。
なんとしても、そのお考えを突き止め、期待に応えなければならない。
小林さんは、未だに気づかない振りを続けていた。
気を引き締めなければならないのは理解しているのだが、自然と、頬が緩んでしまう。
なんて大きくて、広すぎる背中なのだろうか。
その時、突如として、触れたいという衝動に駆られた。
だが、必死におし留めた。
惚けを隠せずにいたが、行動をしなければ始まらない。そっと、背中に声を放った。
「こ、小林さん、お疲れ様です。
昨夜はどうもありがとうございました」
「こ、小林先輩もお風呂ですか?
あと昨日はありがとうございました」
正に、夢中となっていたようだ。
いつの間にか、アスナさんも傍まで来ていた。
廊下内に温めの、湿った空気が漂っている。夜更けとなってきているからか、宿泊客の喧騒もなりを潜め始めていた。
小さな静寂が降りた後、静かに佇んでいた影がゆっくりと振り返った。
その動きは淀みなく、振り返ってくれているだけなのに、私の心拍は急激に跳ね上がっていった。
小林さんが、私に向けて微笑んだ。
するとまるで、辺りの空気でさえも、一級品の気品のようなものが漂い始めたような気がした。
致し方ないだろう。
私の視線が、釘付けとなってしまうのも。
三者三様の長き沈黙。だがそれは、身体中を火照らせていく。
頬が熱くなって行くのを感じながらも、私は必死に頭を悩ませていた。
小林さんが、伝えにきただろう事柄。それは一体という言葉が、脳内を騒がせていたからに他ならない。
だが、答えを見つける事は出来なかった。
いや、それも当然なのではないかと、素直に思えた。
なぜならば、あの小林さんの内情を推し量ろうなど、未だ未熟な己に出来うる範疇を逸脱していると認めたからだった。
それを認められない者は、さながら、自らを身の程を弁えない不埒な愚者だ、と言って回っているようなものなのだから。
だが、諦める気は毛頭なかった。
妥協などという由々しき行いを、決して許してはいけないのだ。
そんな血迷った事を続けていたならば、小林さんの横に並び立つ事など、夢のまた夢なのだから。
小林さんは、一体、何を。
次の瞬間、苦悩する私をよそに、小林さんの口は開かれた。
そしてそれは、予想さえしていなかった言葉だった。
「いや、お礼なんて必要じゃないよ。
悪いのは、俺。覗き見なんていう、姑息な真似をしてしまったのは俺の方なんだから。
身分不相応な行為だった。
すまなかったね」
心の底から申し訳ないといった表情や仕草で。
理解出来そうもない言葉に、否応もなく、私は思考停止に陥った。
辺りにまた、滑稽にも静寂が降りていく。
湿気を帯びた温風が通り過ぎると、次第に張り詰めたものへと変わっていった。
脳内は混乱しきり、狐にでもつままれたようだった。だが、半ば必死に彼の言葉を噛み砕くように半数した。
逡巡の後、何とかその言葉の意味を理解した時、半ばうろたえてはいたが、問答無用と私の口は開かれた。
「い、いえ!
元はと言えば、私の力量不足が問題なのですから!
小林さんが謝る必要はどこにも……」
「そ、そうですよ!
小林先輩が謝ることないです!
見ててくれたから、みんな頑張れたんだし……私も嬉しかったですし……」
同様の思いだったのだろう。
アスナさんも酷く狼狽した様子で、そう加勢してくれた。
焦り狂う脳内に活を入れて、再度、考えてみる。
小林さんは昨夜の行動を覗き見だったのだと比喩し、私達に謝罪をした。
だが高らかに、そして、率直に言えるのだ。それは違う、と。
昨夜の一件。みすみすお嬢様を危険にさらしたのは、誰が見ても間違えようがなく私の落ち度だ。
その上、平穏無事と助けられたのも、私の功績ではない。
小林さんの鋭利なまでに穿った戦略を使用させて貰っただけ。私はただ、それを実行しただけに過ぎないのだから。
多大な感謝の念こそ胸中にあれど、頭を下げられる謂れはないのだ。
私の方こそが当然の如く、深々と頭を下げなければいけない立場、なのだから。
ならば、どうして。
そういった思いが、心の内を渦巻いていた。
答えは出なかったが、小林さんを貶めている状況は許容出来ない。
アスナさんと二人して、半ば無我夢中に否定をし続けた。
だが、小林さんは頑として譲らなかった。こちらに謝罪し続ける意思の固さに、私は確信していた。
やはり、私に何かを悟らせようとしている、と。
それから私の力不足が原因となり、小林さんと私達の論争は続いていった。
道程は、先行きが見えない平行線を辿っていく事となった。
致し方ない事と、思う。
小林さんのこの行動の裏には、何らかの深き意味合いがある。
だが私の実力では、彼の真意を推し量る事は、さながら、人類が宇宙の全てを知ろうとするほどに難しい事柄なのだ。
その思惑を理解出来もしないのに、はい、そうですか、と流す事は出来なかったからだ。
私はうろたえたまま、無益な時間が流れていく。
小林さんに無礼にも頭を下げさせているというのに、何も出来ない自らが酷く煩わしかった。
だが、結果から言えば論争は終結した。
突然として、小林さんの口許に、暖かい笑みが浮かべられたのだ。
その笑みは、緊迫していた雰囲気を穏やかなものに変えていく。
まるで、神々しきまでに見える微笑み。私は見惚れながらも、やっと、彼の本当の思惑に辿り着いた。
その表情が、邪気のない笑みが物語っていたのだ。
『肩の力は抜けたかな?』
確かに、そう感じ取れた。
こうまでして頂けなければわからない自らに辟易としながらも、そういえば、と思えた。
修学旅行。お嬢様は、幼少の頃から私の誇りであり、存在意義だった。
だが、その大切な命を、不確定要素を孕みながらお守りしなければならないという重圧は、予想以上に遥かに重かった。
ネギ先生やアスナさんなど、確かに信頼出来る仲間も出来ていた。
二人の暖かき気遣いには、多大な感謝をしている。これからも、色褪せる事はないだろう。感謝してもしきれないほどの感情で、胸が一杯だった。
だが、浸透していくように思う。
心の中だけに存在する、もう一人の私。
まるで、氷のように冷めきった私は、こう結論づけていたのだと思えた。
自らの命を賭して、自らの命が消え行く最期まで、お嬢様を守り抜けられるのは、自らだけなのだ、と、
そして、ある事に気づいた。
その傲慢なまでの自負が、私を縛り付けて四肢を重くし、柔軟な思考を抑制していたのではないか、と。
そう、なのだろう。
だからこそ、お嬢様を危険にさらすという、愚を犯してしまった。
さながら、頬を思い切り張られたような実感が、衝撃と共に湧き起こった。
私はなんという愚か者なのだろうか、と羞恥の感情が表れ騒いだ。
身の程を知れと、強く自らを叱咤した。
私には、小林さんのように、神がかったまでの実力などないのだ。
一際異才を放ち、実力者達から一目置かれている武器、頭脳明晰な戦略はない。
たかが、野太刀を振るえる程度の小娘。私一人が出来うる事など、高が知れていると重々理解していたではないか。
あの光り輝くような出会いの日に、小林さんにそうご教授して頂いていたというのに。
自らの身の程を深く知る事から、強者への第一歩となる。
そんな事はわかりきっていたというのに、私は。
私の視線が自然と、救いを求めるように小林さんへと向かう。
彼は、至らぬ私をまた、あの出会いの日と同じように、導きに来てくれていたのだ。
まるで、家族のように穏やかに優しく。
その透き通る瞳は真っ直ぐに、そして、私の全てを見透かすように静かに在った。
そして、その視線に含まれたある言葉が、内心に訴えかけられた。
「きみに出来る事は、まだ少ない。
だが、きみには、こんなにも頼もしき仲間達がいるじゃないか。
きみは、独りきりなんかじゃないんだ」
そう、だ。
正に、目から鱗が落ちたかのような実感が湧いた。
アスナさんもネギ先生も必死に、ただお嬢様を守ろうとしてくれた。
それは、簡単な言葉に思えるかも知れない。だが、それは違う。簡単な言葉などではないし、簡単に行動に移せはしないのだ。
なぜならば、昨夜のあの場には、下手をすれば命を落とすような危機が、明確にあったのだから。
それなのに二人は、そう在る事が当然かのように、私に加勢してくれた。
それは小林さんの生き様、尊き在り方と、繋がったように思えた。
善意に、見返りを求めない姿勢。打算なき姿勢。それは、とてつもなく希有な心意気。
私は、独りきりではない。
それはさながら、一種の魔法のような言葉。その効用は、とてつもないほどの勇気という感情を、身体中にまとわせる。
私の勘違いでなければ、二人は私を信頼してくれるように思う。
それなのにも関わらず、私が二人を信頼しないなんて、傲慢と呼ばずして何と呼ぶのか。
小林さんは、それを教えにきてくれていたのだ。
わかってはいたが、なんという器の大きさ、なのだろうか。
私の至らぬ心模様を察知してくれて、さりげなくその道を正してくれる。
その類い希なる洞察力には脱帽を禁じ得なかった。
私の目に移る彼は、間近にいる。だが、彼の本質は、手の届かない天空にいる。
心の中で、強く呟いた。
小林さん、見ていて下さい。
私は皆さんと協力しあい、必ずお嬢様を守り抜いて見せますから。
いつか必ず、あなたの傍に立てる資格を持って見せますから。
心地のよい談笑が、廊下に響く。小林さんが主導で、楽しそうに話している。
その微笑みを見ているだけで、私の身体は癒されていくように感じた。京都に置いての、数少ない安らぎの時間となっていた。
小林さんのプライベートを知れる事が、この上なく嬉しかった。まるで、空に浮かぶ心地と言えた。
小林さんは、学園で育てているサボテンの開花を待ち望んでいるらしい。
ああ、なんて優しい人なのだろうか。
私とは違い、生い立ちに決して穢される事なく、サボテンにまで、その溢れるような慈悲をお与えになっているとは。
機会があれば、私にも見せて欲しい。だが、羞恥心からか、見つめる事しか出来なかった。
それからの顛末には、アスナさんと二人して、笑いをこらえる事が出来なかった。
学園長や高畑先生の素晴らしさを語っていた小林さんが、突然として、こう言ったのだ。
ふざけた、のだろう。終始真顔で、さも当然のように恍惚とした表情で。
「全く持って、困ったものだ。学園長の壮大なまでの器量にはね。
俺はこの頃、いつ如何なる時も、素直にこう思うんだ。
学園長を祭るために、麻帆良に豪華絢爛な仏閣を建ててはどうか、とね。
うーん……名前は、近右衛門寺院にしよう。近右衛門寺院……ああ、なんて素晴らしく荘厳な響きなんだ。
世界樹も素晴らしいものだが、近右衛門寺院の建設のためならば斬り倒してもいい」
二人して、唖然とした。目は点になっている事と思う。
時が止まったかのような錯覚を受ける中、アスナさんが我慢出来ないと吹き出した。
私はというと、身体を震わせて、耐えていた。
いつ如何なる時も思っている。
三回もその姿を現した、近右衛門寺院という名称。
世界樹の役割について、小林さんも知っているはずなのにも関わらず、それを斬り倒せとは。
私が込み上げてくる笑いに苦労しているというのに、小林さんは真面目にこちらを直視していた。
その表情には、確かにこういう言葉が含まれていた。
「そう思うだろう?
桜咲さんは他に意見はないかな?」
真顔は、反則だと思う。
我慢出来ずに吹き出してしまい、ええ、そうですねと返答するのが精一杯だった。
それからの小林さんは気を良くしたのか、更に意気揚々とふざけ続けていた。
私達は込み上げる笑いから、頷く事しか出来なかった。
なんて幸せな空間、なのだろうか。
思えば、笑うのが楽しい事だと忘れていた気がする。
それを思い出させてくれた小林さんに、感謝を隠せなかった。
だが、それからの事だった。
私の身体は、煮えたぎるようなまでの憤りに支配された。
それは世の辛酸を嘗めたかのような表情と共に、小林さんの口から語られていった。
なんと得体の知れない不届き者が、分をわきまえずにも、小林さんに詐欺を仕掛けてきたというのだ。
私は、独りでに俯き目を閉じていた。
「……私の小林さんに、詐欺を仕掛けるとは、己の格を理解していないようですね。
小林さんの手を煩わせる必要もない。
どんな方法を使ってでも犯人を突き止め、ここは、私が生きているのを後悔させるほどの引導を……」
言葉の通りだった。
どこの誰だかは知らないが、自らが行った罪の重さを、徹底的にわからせてやらなければならない。
小林さんもお忙しい身の上だ。ここは、私が打って出なければ。
では、どのように犯人をいぶり出す、か。
そうだ。ここは学園長にお願いしてみよう。学園長の手腕ならば、たちどころに犯人を特定して頂けるはずだ。
そして、その時が、卑しき犯人の最期の時となるだろう。
独りでに、口許がへの字に曲がっていく。
心の中で、小さく呟いた。
……悔い改めても、もう遅い。
私の手を汚す事になるが、いや、違う。これは粛正。これは世直し。……必要な事。
その時、誰かに勢い良く体を揺さぶられた。
「ち、ちょっと刹那さん!
なんかおかしくなってるわよ!」
「……ここは一刀両断か、いや、それでは生ぬるい。じわじわと地獄の苦し……。
えっ、は、はい。どうかしましたか?」
突如、視界が開けた。
するとどうしてか、アスナさんが焦ったように身体を揺さぶっていた。
理解不能な状況に、静寂が広がっていく。
小林さんも、私と同様に唖然した面持ちで、こちらを見やっていた。
私は、心の中で頷いた。
アスナさんには、困ったものだ。これが、天然と言われる性格なのかも知れない。
小林さんも、アスナさんの行動に驚いていた。尚も、アスナさんが続ける。
「だ、大丈夫。なにもなかったのよ。きっと」
「は、はあ、それならば良いのですが」
意図は掴めなかったが、私は頷いた。
彼女には失礼だとは思ったが、今、私は考えるべき事があるのだ。
それからも、楽しき談笑は続いていった。
途中、小林さんが、昨夜の一件を誉めてくれた。
高揚感に打ち震えたが、私は訂正した。
なぜならば、昨夜は小林さんの類い希なる戦略に助けられただけだからだ。
その戦略を比喩するならば、さながら、忘れた頃に効いてくる毒のようなものだろう。
新幹線での一件。当初私は、自らの不手際のせいで、小林さんの邪魔をしてしまったと思い込んでいた。
だが、それは違ったのだ。
あの擬態の天才であり、戦略の異才である小林さんが、どうして、相手へ易々と、本性を露わにしたのか。
その答えは、わざと姿をお見せになったと仮定するならば、面白いように話しが繋がった。
偶然をも、策に組み込んでしまう反則的な頭脳。未来を見てきたかのような慧眼。
それはまるで、鋭利な鷹の目を彷彿とさせた。
小林さんは遠くからさりげなく、私達を助けるためにお姿を晒して見せたのだ。
それで命を狙われるかも知れない危惧を、無視してまで。
ここからは、私の推測だが、間違ってはいないと断言出来る。
まず、小林さんの異能さを顕著に表している部分は、洞察力で相手の思考を完全に見抜き、操り人形のように誘導する事にある。
寸分違わず見抜いていく様は、正に神がかっていると言えよう。
小林さんは敵の思考を分析し、こう考えられた。
敵に取って見れば、自らの存在は邪魔でしかない不確定要素なのだ、と。
それはそうだ。
麻帆良の重鎮達に至っても、つい先日まで、彼の力量を推し量れるものはいなかった。
それは小林さんの天才的なまでの擬態能力によるものだが、京都を拠点にしている敵達が、知りようもない。
重鎮達に至ってさえ、小林さん自らが事を起こすまで、気づかなかったのだから。
小林さんは的確に、そこを貫く。
それならば突然として、ノーマークの得体の知れない人物が参戦してきたら、相手はどう思うか。
それはそれは、困った事態となるのは明白だ。
小林さんは、隠密の天才でもある。要注意と調べても、探しても、闇に溶け込んだかのようにその姿は、影も形もないのだから。
それはそれは、不安に陥ってしまうだろう。
計画に支障をきたすといった、レベルではないのだ。
探しても見つからないという事は、姿を隠しているという事。そして、姿を隠せるという事は、その実力が抜きん出ている事の証拠にもなるのだから。
敵は、こう思うだろう。
学園長の名声は高い。
近衛近右衛門が雇った、百戦錬磨の護衛なのではないか、と。
そして、昨夜、その戦略という疑心は大輪の花を咲かせた。
小林さんの不確定な存在が、敵に疑心暗鬼を呼び込み、決定的な隙を形作った。
お嬢様を平穏無事に奪還するという、とてつもない結果を弾き出したのだ。
小林さんは、こちらに笑ってから頷いた。
それは、正解だと示していた。
ああ、なんという人なのだろうか。
小林さんは、もっと評価されるべきお方だ。学園長にも、報告して置こう。
この人と共に在れば、私はより高みに昇れる。
この人と出会えた事を、私は初めて運命に感謝しようではないか。
嘘偽らざる、心境と共に。
身体が、ポカポカと暖まっていく。
首飾りは、外している。羞恥心から、浴衣を脱ぐ時、同時に外したのだ。
露天風呂は、正に爽快だった。
夜空には満点の星達が煌めき、涼しめの風が頬をなでる。
隣に座るアスナさんが、笑っていた。近衛近衛右門寺院について、語っていた。
だが、私はしみじみとした気分となっていた。
小林さんの存在がないのは当然だが、少しだけ寂しくなっていた。
夜空に張り付く月を見ながら、思う。
あなたは、私を独りきりではないと言いましたね。
私も、いつかあなたに言いたいんです。言ってあげたいんです。この、想いと共に。
この世界は、厳しいかも知れません。生きるのさえ、難しい世界かも知れません。
だけどあなたも、独りきりなんかではないんです。
……私が、います。
「……私があなたを支えてみせますから」
「ん?
どうしたの?」
「いっ、いえ、何でもありません!」
感傷的な自らを打ち消すように、勢いよく顔を湯に飛び込ませた。