正に、驚天動地と言えよう——裏その参
−ネギside−
少しだけ肌寒く感じる部屋の中心に、渋いお茶の香りが立ち上っています。
テーブル前の座布団に座っていた僕は、猛る焦燥心を必死に抑えつけようとしていました。
静かに湯呑みを傾けると、喉元を熱い液体が通り、次第に身体が温まっていく感覚を捉えました。
テーブルを挟んで座るヒサキさんが、こちらに小さく微笑みました。
湯のみから両手に伝わる、穏やかな熱。失礼だったのではないかと思いますが、このお茶もヒサキさんが用意してくれたんです。
本当に、優しくて、大きな人です。
自分でも何を言っているかわからないほど焦り狂う僕に、それが当然だと言わないばかりに付き合ってくれて。
善意に見返りを求めない姿勢。その尊い人間性は、さながら、天から伸びる一筋の救いの糸を彷彿とさせていました。
どうして、焦り狂っているのかと問われるならば、記憶を昼間にまで遡らせる必要があります。
修学旅行の、自由研修。今日は、皆さんが各々、自身が勉強したい場所に赴く一日でした。
申し訳ないのですが、僕は皆さんの有り難いお誘いを断り五班の引率を選択しました。
なぜならば、五班にはこのかさんが、守らなければならない生徒がいたからです。
道行く、何もかもが新鮮に感じられました。
京都の風情を感じられる街並みに、日本人の気品に満ち溢れた人柄。お父さんの手掛かりが残る、古都。
致し方ない、とは言えませんが、正直に言って内心、心は踊っていました。
ですが僕は、強く自身を戒めていました。
面に出さないように深く注意して、皆さんに危険が及ばないようにと辺りに目を凝らしていました。
なぜならば、昨夜の由々しき失態が、僕の戒めとなっていたからです。
確かに結果的に言えば、平穏無事と、このかさんを救出する事は叶いました。
確かに結果的に言えば、刹那さんの意図を辛うじて見抜け、少しでも役に立つ事は出来たかと思います。
遥か遠くにある尊敬する人の背中に、微細でも近づけたのではないかと満足していました。
ですが、事の発端をつくってしまったのは他ならない僕、なんですから。
僕の甘い判断により、このかさんを危険にさらしてしまった。
僕の甘い判断により、アスナさんや刹那さんに、無駄としか言えない迷惑をかけてしまった。
その事実に僕の心は、ただ単純に恥ずかしいといった感情で埋め尽くされました。
ですがそれは、どんなに願っても、変える事は出来ない事実なんです。
僕は、落ち込む事を止めました。その内情を振り切るために、先の未来を夢想しました。
なぜならば、落ち込んで下を向くだけでは、何の解決にもならないと素直に思えたから。
昨夜、夜霧が漂う上空。残念ながら、姿は見えませんでした。
ですが、風に惑いながらも消えずに残る、紫色の魔力の波動を眺めながら、僕は強く決意したんです。
いつの日か、必ず隣に並び立ち、恩返しをして見せる、と。
必ず、太陽のように暖かくて遠い背中に、触れて見せるんだ、と。
ですが、僕はまた、迷子のように焦り落ち込んでしまいました。
僕はまだまだ、未熟な子供なんだと再認識する結果となりました。
そのアクシデントは、皆さんと奈良公園の探索中に起こりました。
なんと、生徒である宮崎さんに、愛の告白されてしまったんです。
恥ずかしながら、僕はそれからの記憶が、ほぼありません。
疑問や否定や肯定、倫理。色々な思いが脳内を駆け巡り、ヒサキさんの言葉を借りるならば、パンクしてしまったんです。
その上、また僕は過ちを犯してしまった。
言い訳にもなりませんが、焦り狂っていたからでしょう。
生徒である朝倉さんにまで、秘匿しなければならない魔法を知られてしまった。
反省と混乱が、僕の心を騒ぎ立て、打ちのめしているようでした。
そして、今に至ります。
ああ、僕はなんて情けないんだ。
皆さんと約束したにも関わらず、現状として、ヒサキさんに迷惑をかけてしまっている始末。
趣のある一室には、僕の心を表しているかのように、冷たく湿った空気が沈殿していました。
申し訳ないという気持ちで、胸が一杯でした。
そんな折りの事でした。
ヒサキさんが、自嘲めいた笑みを浮かべました。
その笑みは、停滞していたはずの場を、一瞬にして動かしていきます。
「ネギくん、恥ずかしながら俺は、恋愛については疎い方なんだ。
だけど、俺の精一杯で持って、きみに言葉を送ろうと思う」
僕はその言葉に、心底、率直に意外だと思いました。
なぜならば、ヒサキさんの印象。それは、如何なる時も落ち着き払う事が出来る、百戦錬磨な大人と思っていたからです。
よって、恋愛の酸いも甘いも知り尽くした人だと思い込んでいたんです。
ですが、次の瞬間には、深く頷ける自分がいました。
そうか。
ヒサキさんは、清廉で実直過ぎる人だからだ、と。
とても魅力のある男性ですから、おおよそ、女性には意図せずとも好意を持たれてしまうに違いありません。
ですが、ヒサキさんは、本当に好きな人としか交際しないなどの真面目な理由から、経験が少ないのではないかと推測しました。
僕は、真剣な表情で頷きました。
そんなヒサキさんを心の底から尊敬して、憧れているからこそ、僕は申し訳なく思いながらも相談させて貰っているんですから。
「そ、そうだったんですか。
はい。よろしくお願いします」
ヒサキさんが小さく頷きました。
僕の目を数秒、見据えて、口を開きました。
「俺も少し前に、きみと同様の感情で思い悩んでいた時があった」
僕の口から、疑問と驚きがこぼれました。
「ええ、そうなんですか?」
ヒサキさんがまた、自嘲めいた含み笑いを漏らしました。
「ああ、そうだよ。
この前の、河川敷を覚えているかな。
ネギくんが俺を、勇気づけてくれた時があっただろう?」
僕は驚きながらも、素直に納得出来ました。
つい先日の情景が、頭を過ぎっていきます。
そうか。あの夕闇が迫り来る河川敷でヒサキさんは、まるて、一枚の絵画のように黄昏ていました。
あの時、そういった理由が隠されていたとは、思いもよりませんでした。
そして、皆さんの想いと僕の想いが、微力ながら、ヒサキさんの力となれていた。その事実が、堪らなく嬉しく感じました。
ヒサキさんが、一拍置いた後、口を開きました。
「あの時の俺は、酷く思い悩んでいた。
ある心優しい少女から、告白をされて。
その少女はまるで、聖母のような少女でね。こんなに愚かな俺を、暖かい眼差しで、守ろうとしてくれたんだ。
そして、俺は、彼女の事を大切な存在だと感じていた」
「……そうだったんですか。
ですが、それなら、何も問題はないような」
そう、小さく言葉が漏れ出ました。
双方が共に大切に想い合っているのならば、悩む必要がないんですから。
ですが僕は、今日何回目でしょうか。
まだまだ子供なんだと、再確認する事となりました。
ヒサキさんが虚空を見つめてから、小さく笑いました。
僕は、居たたまれない気持ちとなっていきました。
なぜならば、その儚さを孕む笑みは、確かに、深い罪悪感を孕んでいるように見えたからです。
ヒサキさんが迷いを振り切るように、一度、大きく息を吸い込みました。
そして、口を開きました。
「確かに、嬉しかった。嬉しかったんだよ。
だけど、その大切っていうのは、家族に向けるような親愛といった感情から来ていたんだ」
親愛。その言葉が、心に降りてきたような錯覚を受けました。
家族に対する、愛情。それは未熟な僕にも、何となく理解出来ました。
僕がお姉ちゃんやアーニャや、お世話になった人達に向けているような感情、でしょう。
「親愛、ですか」
ヒサキさんが、小さく頷きました。
「そうだね。
それに、俺には、別に好きな人がいたんだ。
だからこそ、その想いに応える事はできなかったんだ。
嘘で固められた肯定なんて、彼女のためにはならないと思えたからね。
断った後、俺は罪悪感から申し訳なくて、塞ぎ込んだ。
酷く、苦悩した。もう、立ち直れないんじゃないかと思うほどにね。
だけど、俺は、立ち直る事が出来た。
ネギくんもそうだし、麻帆良の皆の支えによってね。
そして、気づかされたんだ」
そう、か。
だからこそ、ヒサキさんは苦悩していたんだ。
その女性が本当に大切だからこそ、本当に案じているからこそ、明確に断る。
罪悪感に身を切られながらも、嘘で固められた肯定なんて、彼女のためにはならないと思えたから。
なんて大きくて、強い人なんだ。
自問自答をしました。
僕ならば、それが最善だと理解していたとしても、断る事が出来るだろうか、と。
自分に好意を持ってくれている女性を、拒絶するなんて出来るだろうか、と。
答えは、出ませんでした。
そして、その経験を通してヒサキさんが得たものが、無性に知りたくなりました。
「何を、ですか?」
ヒサキさんが再度、虚空を見つめました。
今でも、罪悪感から悔いているのかも知れません。その表情は苦虫を噛み潰したかのように、しかめられています。
ですが、次の瞬間でした。
僕は、唖然としました。
ヒサキさんが、笑ったんです。
それは、心の底から現れたような微笑みで、冬から春に切り替わるように。
僕は、疑問に思いました。
どうして、僕を真っ直ぐに見つめて、笑えるんだろう、と。
「落ち込んでいても、何も変わらないってね。
前を向く事、それこそが、何より大切な事なんだ。それこそが、告白をしてくれた彼女に応えられる、最低限の償いなんだと気づかされたんだよ。
なぜならば、落ち込む俺の姿なんて、彼女は望んでなんていないと思えたから。
長くなってしまったけど、この話しを打ち明けた上で、ネギくん、まだ未熟な俺がきみに言える事は一つだけだ」
辺りに、静寂が広がっていきます。
まるで、時が制止したのではないかと錯覚してしまう空間を、時計の音色と強く深い意志が否定していました。
僕は同性だというのに、その微笑みに魅入られていました。
ふと、思いました。
ヒサキさんが実力者であるのは、明白です。
先読みの天才。刹那さんが言っていたように、人の思考を紐解き、操る天才。
ですが、本当に強いのは別の部分なんだ。
それは、心。信念を貫き通し、決して曲がる事のない強固な意志。
それこそが、僕が尊敬し憧れている根幹であり、人心を惹きつけて止まない人柄に繋がっていくんだ。
ヒサキさんが、唐突にも真顔になりました。
そして、ある感情が静寂を打ち消すように、僕の心へと飛来してきました。
「悩んだっていいんだ。頼る事も構わないんだ。
だけど、その答えは自分で見つけるんだ。自分で納得できる答えは、自分だけで見つけなければならない。
俺が、尊敬するある人が、こう言っていた。
純真なる想いを伝える事こそが、きみの為すべき事だって。
何も必要じゃないんだ。
考えて、考え抜いた末にたどり着いた、きみだけの答えを彼女に伝えよう。
例え、どんな結論になろうとも、それが、その彼女が、何よりも欲する答えだと思うから」
その言葉の一つ一つが、僕の心の世界を、一変とさせました。
大袈裟なんかじゃない。
まるで、見える景色が色を持ち、意味を持ち始めたかのように感じました。
そうか。そうだったんた。
答えは、こんなに簡単で身近で、たった一つだけだったんだ。
僕自身の答え。考えて、考え抜いた末に出た結論を、宮崎さんに伝えれば良かっただけなんだ。
それがどのような結果になろうとも、彼女を傷つける結果になろうとも、それこそが彼女の真摯な気持ちに応えるたった一つの方法。
徐々に震え上がっていく身体を捉えながら、僕は口を開きました。
最大限の感謝を持って。
「は、はい!
ありがとうございました!
考えて、考え抜いて結論を出してみます……。
……僕だけの、答えを」
ヒサキさんが、静かに立ち上がりました。
僕に微笑みを向けると、帰るよと言いました。
僕は次から次へと溢れ出てくる感謝の念をそのままに、再度、誠心誠意で頭を下げました。
ヒサキさんは小さく頷くと、出口のドアに向かって歩いて行きます。
その背中は、とてつもなく大きく見えて、僕は見つめていました。
さあ、僕だけの答えを見つけるんだ。
そう、考え込もうとした瞬間でした。
正に、予想外な事態が巻き起こったんです。
唐突にも、猛々しい叫び声と共に、ドアが強く開かれたんです。
さすがのヒサキさんも、敵地ではないここで、まさかそうなるとは予測していなかったのでしょう。
為す術なく全身に衝撃を受けて、小気味の良い音と共にこちらに吹き飛んできます。
「こ、小林の旦那ぁー!
訳を説明させてくだせぇー!!」
「ご、ごめんなさーい!」
僕は唖然としていたため、受け止める事も出来ず、二人でもみ合うように転がってしまいます。
そんな最中、脳内だけは冷静で、滑稽にもこう考えていました。
……さっきの声は、朝倉さんとカモくんだよね。
謝るなんて、何か悪い事でもしたのかな。
そして、僕は、感じました。
僕の唇に合わさる、異様なまでに柔らかい感触を。
脳内が、混迷と化しました。
僕の見開かれた目に、ヒサキさんの凛々しい顔が隣接していました。
視界が、白んでいきます。
次第に閉じ行こうとする幕を感じながら、僕は最後にこう思いました。
……あれ、男性なのに、女性より柔らかいって。
−朝倉和美side−
修学旅行の二日目。私達、3Aの面々は代わりばえなく、夜のお祭り騒ぎに興じていた。
題して、「くちびる争奪! ネギ先生ラブラブキッス大作戦」は、盛況さに溢れていた。
さすがの、ネギ先生といったところだろう。
参加者は後を絶たず、思い思いの背景を背に、何ら滞りなく進行していた。
モニタールーム。一室は薄暗く、画面から放たれる仄かな明かりだけが、私達を縁取っている。
画面は数個に分割されていて、参加者の動向が逐一映し出され、参加者以外の生徒達も楽しめる放送となっていた。
だけど、この放送には裏がある。
それは、定位置だと言わないばかりに肩口に座るカモっちの、ある種、猥雑なまでの笑みが物語っていた。
これからの未来に、夢を馳せているんだろう。
金欲に狂った目。さながら、漫画とかであるならば、両目は金という文字で描写されているはずだ。
まあ、姿形がオコジョだから、放送に耐えられる範囲ではあるとは思うけど。
私は苦笑を漏らすと、高揚を肌に感じながら、画面に視線を戻した。
だけど、その時だった。
皆を映し出していた画面の一部分が、突然として、砂嵐へと切り替わってしまったんだ。
意味不明な事態に、文字通り唖然とした。
だけどその間にも、また一つ、また一つと砂嵐に切り変わっていく。
私は、慌てて叫んだ。
「ち、ちょっとカモっち!
なんか、おかしくなってる!」
私が焦っているというのに、カモっちは心底、面倒臭そうに言った。
そして、驚愕の声を上げた。
「なんスか、ブンヤの姐さん。
オレっちは金勘定で忙しいん……な、なんじゃこりゃー!」
先ほどまで金だった目が、一瞬にして、驚という文字に変化した。
無駄に、刻々と時間が過ぎていく。
だけどそれは、何の解決策にもならない事は明白だ。
無情にも、残りの画面さえ、加速度的に砂嵐に切り替わり始めた。
明日の視聴者からのクレームを覚悟しながらも、私は口を開いた。
「は、ハッキング!?
そ、それとも誰かがカメラを映せないようにしていってるとか!?」
それを、カモっちが否定する。
「い、いや、誰にも気づかれてはいないはずだぜ!」
すると、その時だった。
私は画面越しに、ある物体を視界に捉えたんだ。
疑問が、小さな呟きとなって漏れた。
「な、なにこれ?」
画面に映り込む謎の物体へと、自然に指を差した。
そこに、映っていたんだ。
なんか、良くわからないけど、黒色のロープを羽織った小さな死神みたいな物体が。
右手に掴む艶やかな白銀の鎌が光を反射して、身体中から紫色の霧のようなものを放っていた。
まるで、人形のようだけど、人形ではない。
その死神は宙にフワフワと浮かんでいるんだ。
その上、表情があった。顔の造形は、フードで見えない。だけど、見えている口許には、愉しそうな笑みが張り付いていた。
小さいからか、余り恐怖心はなかった。
だけど、予想外なSFチックさに驚愕を隠せなかった。
カモっちもやっと気づくと、驚きの声を上げた。
「な、なにもんだコイツは!?
ゆ、幽霊か? いや、精霊? それとも悪魔か?
なんにせよ、画面越しじゃわからねー。
つ、つーかこの格好は、小林の旦那の格好に……。
そ、そうか! コイツは旦那の使い魔かなんかだな。
な、ならなんでカメラを……」
言い終わると、またカモっちが何かに気づいたのか、口を開いた。
「そ、そうか……!」
そして、唐突にも、黙り込んだ。
怯えてでもいるんだろうか。身体を小刻みに震わせて、顔面が蒼白になっていく。
嫌な、予感がした。
誰もいないというのに、辺りに何者かの気配を感じた。
脳裏に、先ほど見た死神の愉悦の笑みが浮かび上がる。
まるで、連鎖していくように、酷い寒気が身体へと襲いかかってきた。
だけど、ジャーナリストとして、ここは譲れない。
私は順序立てて、カモっちに質問を繰り返した。
そして、私は苦笑いするという、選択肢しか選べなくなる事態に陥った。
カモっち曰わく、小林の旦那って人は小林氷咲という名前であり、人柄を羅列していくとこういう人らしい。
正に善意の塊のような人で、相手が果てしないほどの強者であっても、自らの信念を決して曲げずに弱者を守ろうとする。
実力は折り紙付きで、ネギ先生の危機を救った事から、憧れの人となっている。
普段は優しく穏やかな人だが、いざ戦闘となると、悪には容赦をしない。頭脳明晰な戦略眼で、相手が気づいた時には勝負は決している。
自らの素性を知られるのを妙に嫌い、闇雲に知ろうとすれば、その者は命を落とす事になるだろうと吸血鬼が言っていた。
まず、逆らってはいけない。
アスナが鬼ならば、彼は鬼神。アスナなど、子供のようだ。
そして、私達のふざけた行動が、彼の逆鱗に触れてしまった。
だからこそ、使い魔を用いてカメラを壊し、暗に忠告をしているらしい。
私は、苦笑した。いや、笑うしかなかったんだ。
なぜならば、その話の途中で、小林氷咲さんの姿をカメラが映してしまっていたんだから。
カモっちがブルブルと震える指先で差した方向に、その少年は映り込んでいた。
そして、私は唖然とした。
なぜならば、その少年は間違う事なく、先日、私が写真を撮ってしまった少年だったからだ。
失礼にも、不審者だと決めつけて。
素性を知ろうとする者は、命を落とす。
そんな言葉が、脳裏を過ぎった。背筋に、ゆっくりと冷たいなにかが通っていく。
だけど、希望的観測はある。
なんたって日にちが経っているんだから、許してくれているのかも知れない、と。
だけど、忘れてはいけない。
なぜならば、今、彼は怒っているんだから。
私達の、少々、ふざけ過ぎてしまった愚行に対して。
私の乾ききった笑みを見て取って、カモっちが唖然と口を開いた。
「な、なに笑ってんスか姐さん!
旦那は女だからって容赦しない、平等な男ッスよ!」
私は、空元気で言う。
「い、いやー私、やっちゃったんだよねー」
「は、はあ、なにをすか?」
一拍の後、私は言った。
「……この前、不審者扱いした挙げ句、すごく嫌がってるのに写真を撮り続けちゃったり」
辺りに、静寂が広がっていく。
先ほどの騒ぎはどこに行ったのか。音という音が、消えてしまったようだった。
カモっちの口が、静かに開いていく。
辺りに、けたたましい叫び声が響き渡った。
「な、なんて事してんだよ姐さんー!!」
私に出来る事は、ただ乾いた笑みを浮かべる事だけだった。