一体全体、意味がわからない——表
−小林氷咲side−
窓の奥の空は、見事な朝焼けに染まっていた。
ポツンと浮かんでいる茜雲の少なさから、今日は快晴となるだろう。
小鳥が早朝の声を届け、涼しき風が歴史ある街を通り抜けていく。
脳裏には自然と、爽快といった言葉が浮かび上がっていた。
ホテル内に、静かな時が満ちていた。
騒ぎ疲れたのだろう。宿泊客達も、未だに夢の世界で船を漕ぎ出しているようだ。
俺は、見慣れた廊下をゆったりと歩いていた。
彼女には、誰もが無防備になってしまう早朝も敵わないようだ。
普段と変わらぬ見目麗しい茶々丸さんを伴い、ある集合場所を目指していた。
それにしても、少々、不安な事があった。いや、厳密には少々、ではない。胸の底に、不安がフツフツとたぎっている状態だった。
だが、間違ってはいけない。それは、昨夜の少年との情事、ではない。
情事については、確かに、気にしていない訳ではない。気にしていない訳ではないのだが、至極、当然と言えよう。
なぜならば、あれは事故、だったのだから。
初キスが少年という、ある種、そちら側の道を歩もうとする方のような経験ではあるのだが、致し方ない。致し方ない、と言えよう。
二度目ではあるが、声を大にして、地球上の生物達に言って置きたい。
あの事件は、天地がひっくり返ったとして紛れもなく、事故、だったのだから。
俺の女性に対する趣向は、至ってノーマルである事は周知の事実。それは、ネギくんに至ってもそうだろう事は明白である。
それならば、そう、忘れるべきなのだ。
ネギくんの、そして、自らの自我を保つためには忘れるべきなのだ。
確かに、要因はどうだとか、何の因果がとか、そういった言葉が脳裏に過ぎってしまう事は否めないし否定も出来はしない。
だが、忘れなければならない。忘れなければならないのである。
それこそが、自らを救う唯一の手段であり、ネギくんを悪しきトラウマから救う唯一の方法だと思えたからだった。
それでは現状として、一体、何を不安視しているのか。
それは言ってしまえば、至極、簡単な事柄であった。
その純真さは、容易く、天上にまで達すると言われてばからない茶々丸さんの様子がおかしいのである。
目覚めてからというもの、異様なほどにおかしいのだ。
何と言うか、こう、よそよそしいとでもいうのだろうか。
普段の落ち着き払った物腰は影を潜め、まるで、双子の妹かのように挙動がおかしい。
そう、思いたくはない。思いたくはないのだが、無視でもされているのではないかと危惧してしまうほどに反応をしてくれない。
その上、今に至ってもそうだ。
時折しか、視線を合わせてもくれないのだ。
想像はつかない。想像はつかないがだ。
俺は、こう結論づけた。
何らかの要素や事柄から、酷く嫌われてしまったのではないか、と。
俺はというと、それはそれは迷子のように恐れ戦いていた。
だが、しかし、それも違うようだ。
有り難くも、適量の美味し過ぎる朝食も頂かせて貰えた。
その上、突然の桜咲さんの連絡にもついてくるというのだから。
それならば、どうして。
脳内には、混迷、混濁、混乱と、混の大盤振る舞いが始まる騒ぎとなっていた。
だが、わからぬものはわからない。
彼女は、思春期である。
男にはわかり得ない事情などがあるのだろうと、半ば強制的に自らを説得していた。
遠目に、待ち合わせ場所に指定されていたホテルのロビーが確認出来た。
その空間は、圧巻だった。
正に、俺の知り合い大集合といった様相である。
皆一様に、T型のソファーに座っていた。
そして、独りでに俺の歩みは制止された。
どうか、したのだろうか。
どこか、雰囲気がおかしいのである。
まるで、稲妻が暴走しているかのような、ピリピリとした不穏な気配が至る所にのさばっていた。
重苦しき、静寂が降りていた。
状況を把握するために、頭を回転させた。
ネギくんは、反省でもさせられているのか頭を垂れていた。
神楽坂さんは怒ったように、腕を組み見下ろしていた。
カモくんに至っては、なんという事だろうか。
テーブルの上で、これぞ正に土下座、といったような様相で額を押し当てていた。
その上、その上である。
なんとあの桜咲さんまでもが、冷たさを滲ませる背中でネギくんを見下ろしていた。
そして、あれは昨夜の少女、だろうか。
先日、俺の写真を撮っていた少女。昨夜の一番の要因と思われる少……。
いや、いかん。いかんぞ。
昨夜の事を考えてはならない。
心の奥深く、深淵の底に、太い注連縄を巻き厳かにも封印をしなければならない。
小さく、息を吐いた。気を、取り直そう。
その少女までもが、二人に怒られているのだろうか。
頬を伝う冷や汗をそのままに、乾いた笑みを浮かべていた。
ふと、可哀相には思えた。
だが、彼女達には彼女達なりの深き事情があるのだろう。
全くの関係者ではない俺が、先輩風を吹かせて諫めるなどしてはならない。
俺はまだ、そこまでの人間とは成り得ていないのだから。
ゆっくりと近づくと、何も気づかなかった素振りで片手を上げた。
やはり、何事も挨拶から始まると言えよう。
「みんな、おはよう。
今日は良い天気になりそうだね」
「皆さん、おはようございます」
茶々丸さんも、礼儀正しい口調で挨拶をした。
全員の視線が、堰を切ったようにこちらへと向けられた。
やはり、ここまで注目されては照れてしまう。だが、感情を無理に抑えつけて、出来うる最大限の微笑みを返した。
やっと、こちらを認識してくれたのだろう。
まるで、スイッチでも入ったかのように、皆が思い思いの表情を浮かべた。
桜咲さんと神楽坂さんが慌てて立ち上がると、声を上げた。
「小林さん、おはようございます。
わざわざお呼び立てしてしまって、申し訳ありません」
「お、おはようございます」
「構わないよ」
快く、頷いた。
次第に、空気が弛緩されていく。
そんな中、他の二人はというと、やはり落ち込んででもいるのだろう。
ネギくんは力なく挨拶をしてくれた後、頭を垂れた。
少女に至っては、何やら顔を青ざめて目を反らされてしまった。
そうか。昨夜の騒動に対する罪悪感から、心が騒いでしまっているのかも知れない。
さほども、気にしてなどいないよ。
そう、口を開こうとすると、不思議な事が起こった。
桜咲さんと神楽坂さん、二人の視線がある一点を捉えて制止したのだ。
次の瞬間には、残りの皆も文字通り、目が点となっていく。
そして、辺りに声がこだました。
「いえ、お呼び立てをするなど、逆に私達が……、ち、茶々丸さん、どうしてここに……?」
「な、なんでここに茶々丸さんがいるの!?」
空気という空気が、制止でもしてしまったかのような錯覚を受ける。
俺はというと、内心で頭を抱えていた。
どうして、他の皆が驚いているのかはわからない。わからないが、自然と乾ききった笑みが漏れ出た。
最近の充足した生活からか、俺はある事実を、記憶の彼方へと追いやってしまっていたようである。
そう、推測ではあるが、桜咲さんの想い人が茶々丸さんであり、狂気渦巻くヤンデレストーカーだったという最重要な一点を。
いかん、いかん。
まずい。これは、まずいぞ。
ふと背筋に、戦慄が疾走していった。ある考察が、浮かび上がったのだ。
狂気から穏やかへと、何とかシフトチェンジしてきていた彼女の心がだ。
俺の失態により再度、暴風雨のように、荒れ狂ってしまうかも知れない、と。
どうすれば。
現状を打破するために、無理矢理、頭を回転させる。
一つだけ、希望的観測はあった。
恋い焦がれていたのはとうの昔の話であり、現状は何とも思っていないという推測である。
だが、この驚愕しきった表情を鑑みるに、可能性は極めて低いように思えた。
ならば一体、どのように、推移していけば。
内心、焦り狂っているというのに、当事者であるはずの茶々丸さんが口を開いた。
拍子抜けしてしまうようなまでの、淡々とした口調で。
「私は、学園長の命により、お兄様のサポートをしています」
またもや、連鎖していくように、次々と皆の目が点となっていく。
前髪を静かに揺らす、流れ行く風に名を付けるのならば、困惑の風、だろう。
音が自重でもしているかのような無音の中、不思議そうな少女達の声が響き渡った。
「お、お兄、様とはなんですか……?」
「ち、茶々丸さん。お、お兄、様ってなに……?」
なんと、いう事だ。
よくよく考えてみればそれは、そうだ。そういえば、慣れてきてしまっていたが、それはそうである。
俺は茶々丸さんの、実兄ではないのだから。
それなのに、お兄様と呼ばせているなど、いや、厳密には違う。だが、客観的に見れば、そう思われても仕方ない。
それならばこれから、アブノーマルヒサキなどと不名誉な二つ名を付けられたとしても文句は言えないではないか。
誰が、悪い訳ではない。確かに、誰が悪い訳ではないのだが、桜咲さんの御前でそれを言われては、正しく万策尽きたと言えた。
心の中ではミニヒサキがベレー帽を被り、現実逃避と、太陽の神々しさを描こうと筆を取り始めていた。
「お兄様は、お兄様ですが」
「そ、そうではなくてですね……」
「……?
何か、おかしいでしょうか?」
「お、おかしくはないんだけど、どういう成り行きでというか……! ……ねえ、刹那さん」
「は、はい、そうです!
どうして、そのような呼び方を……?」
「成り行き、ですか。
そう呼称しても構わないと、お兄様が認めてくれましたので」
「そ、そうなんですか」
「そ、そうなんだ」
二人の視線が、俺へと向かう。
それは言葉に直訳するのならば、真偽のほどを確かめるかのような、である。
脳内に、様々な感情が渦を巻いていく。
自然と、苦笑いが漏れ出ていた。
人間、危機的状況に陥ると、苦笑が浮かぶものだと聞き及んでいたがそれは真実だったようだ。
どのような、解釈をされたかはわからない。
だが、二人にはまだまだ果てなき疑問のほどがあるのだろう。
そそくさと、茶々丸さんに詰め寄って行った。
俺はまたハハハ、と力なく笑うと、静かにその場を離れた。
未だに、頭を垂れたままだったネギくんの隣に、うなだれるように座り込んだ。
説明などしなくとも、わかって貰える事と思う。
これが俺の出来うる、現実から逃避するための一種だったのだ。
背後の方向から、少女達の華やかな声音が聞こえてきてはいた。
だが、脳内で他国語に変換する事で対応した。
そんな無駄な行為に耽っていると、唐突にも、ネギくんが申し訳なさそうに口を開いた。
「ひ、ヒサキさん、あの、お話しがあるんですが」
精神的疲労からか、乾ききった笑みを浮かべたまま問いかけた。
「なにか、あったのかな?」
すると、ネギくんはばつが悪そうに口ごもった。
不穏な雰囲気が、辺りに漂っていく。
意図は掴めないが、こういう時は待つ事が大切である。
培ってきた経験則に従い、最大限の微笑みでもって待つのだ。
程なくして、ネギくんが意を決したように口を開いた。
「は、はい。
お話しとは、昨夜の事なんで」
「ネギくん、大丈夫だ」
反射的に片手を前に出すと、言葉を遮った。
突然の事に、ネギくんが目を見開く。
そうか。そう、だったか。
やはり、京都は冥界と言えよう。
この地を踏みしめてからというもの、死活的な問題は否応もなく次から次へと迫り、瞬く間に山積みになっていくのだから。
ネギくんが、心優しくあるのは周知の事実である。
罪悪感から派生してしまう、影響。昨夜の、仏様の存在を疑ってしまうほどの無慈悲過ぎる、騒動。
それは、無情過ぎる結果を呼び込んでいた。
小さな少年の真摯なる心に、トラウマという闇を、形作ってしまったのである。
なんと、いう事だ。
悲しき結果に、自らの力不足を実感させられた。
そんな俺をよそに、ネギくんが慌てて首を振った。
「ち、違うんです!
あれは勝手に朝倉さんや、カモくんが!
カモくんもなんとか……あ、あれカモくんも朝倉さんもいない。
さっきまでここにいたのに……」
あたふたと、周囲を見回す。
俺は、心の中で、泣いていた。
紛う事なく。紛う事なく、俺の考察は的を射てしまっていたのだから。
朝倉さんという名称は、昨夜の少女の事で間違いないだろう。
そして、カモくんという忘れたくても忘れられない名称。
強く、高らかに宣言出来ると言えよう。
これ以上、ネギくんの心を苛ませてはならない、と。
俺は多国籍に変換する事さえも忘却の彼方に、真剣な表情で言葉を紡いだ。
「ネギくん、二度目だが大丈夫だ」
「だ、大丈夫、ですか?」
当然、だろう。
ネギくんが、不思議そうに呟いた。
「ああ、大丈夫なんだ。
そうだ。そうだね。
強いて言うのならば昨夜の騒動は、運命の悪戯みたいなものだと言えるだろう」
「運命の悪戯、ですか。
で、ですが、仮契約の問題が! ヒサキさんを従者だなん」
再度、俺は遮るように首を振った。
なにやら吸血鬼語だとは思われるが、ぱくてぃーおー、とやらの意味は皆目見当もつかない。つかないがだ。
そんな事柄は、現状、どうでも良いのである。
これ以上、無為な時間を浪費させてはならない。
ネギくんは、修業の身。儚くも父の背を追いかけながらも、良き教師となるため努力しているのだから。
俺は強く頷くと、言った。
嘘でも何でも良い。
俺は年長者、なのである。俺はネギくんに取って、模範とならなければならないのだ。
「ネギくん、俺は気にしてなどいないし構わないよ。
なぜならば、誰かが悪い訳じゃないんだからね」
「そ、そうですが」
ネギくんの語調が、弱まっていく。
俺は最大限の微笑みで持って、口を開いた。
「それならば、現状として、ネギくんがしなければならない事は一つだけだ。
それは、ただ、未来だけをその瞳で捉えて、進み続ける事。
それ、だけだ。過去は見なくて良い。何も考えなくていいんだ。
そして、いつか、振り返れる時期が来た時に初めて、改めて過去を見直そう。
だから今は、前だけを向いて進もう」
唖然としていたネギくんが、こちらを見つめて黙り込んだ。
長い間、互いの視線が交錯した後、ネギくんの表情に色が戻った。
その色は、強き決意に彩られていた。
「は、はい!
ヒサキさんの言うとおり、今は、未来だけを見て進んでみます!
頑張って、頑張って、そして、一人前になったら、またヒサキさんに」
俺は、応援する気持ちを込めて強く頷いた。
だが内心は、深い安堵の息が漏れていた。
良かった。本当に、良かった。
これで、トラウマに心を支配されてしまう事はないだろう。
ネギくんの、心からのお礼の挨拶を受け取る。
立ち上がりながら、俺も笑顔を返した。
さあ、一端、部屋に戻って準備をしよう。そして、今日という日を、糧にするのだ。
そう、振り返った時だった。
忘れていたのだ。
もう一つの、由々しき問題を。
そこには、桜咲さんと神楽坂さんが立っていた。
何やら、頬が朱に染まっていた。その上、もじもじと落ち着かなさそうに指を絡めていた。
そして、彼女達は、世界大戦の戦火を彷彿とさせる波状攻撃を繰り出した。
「こ、小林さん。
あの……私もお、兄さん、と呼んでも……」
「こ、小林先輩。
お、お兄ちゃんって呼んでも、良い、ですか?」
心の中のミニヒサキは、その爆発的な破壊力に、ある意味で、四方八方に消し飛んだ。