その暗闇を沈み行くものは——表その参
—小林氷咲side—
「小僧、戯れが過ぎるぞ。
私のものを盗もうとするその根性は、賞賛に値する。
だが、この愚か者が欲しいというのならば、この私の息の根を止めてからにしろ」
化け物の体躯から発露される、金色の光量は凄まじく、正に神々の偉大な後光を彷彿とさせている。
天地万物全てを、煌々と照らしているのではないかとさえ錯覚させられていた。
壮絶、の一言だった。
次元を隔絶するようなまでの唸り声。天を衝く咆哮。それは俺を恐怖に縛るばかりか、激しく大地を振動させていた。
意識は朦朧。迫り来る疑問のうねりは解読不能の様相を呈し、口を噤み凝視するという選択肢しか取れはしない。
あの奇妙奇天烈さを遺憾なく発揮し喋り倒した、白髪の少年の姿はいずこへ。
そして、この身を支配し匂い立つ、破滅の如き焦燥心は、どのような真実を示しているのだろうか。
半ば、現実逃避を敢行していた脳裏は、認識する。圧倒的。絶大なまでの存在感を欲しいままにする、ある少女を視認していた。
特徴的な金色の毛髪の一本一本は繊細で、夜風に惑うようにサラサラと揺れている。
正に我々日本人が思い描く、西洋のお人形さんのよう。
ではあるのだが、その服装は教育上、余りよろしくはない。漆黒を基調とした女王様スタイルだった。
まるで、吸血鬼のように、いや、彼女は吸血鬼だったかとふと思う。
「エヴァンジェリンさん」
「エヴァンジェリンさん!」
「エヴァちゃん!」
皆も、気付いたのだろう。
視線は知らず知らずの内に彼女、一点へと向かうのも自明の理と言えた。
陰影から這い出し、その身を現わにした少女は振り返ると、フッと妖艶な笑みを浮かべる。
だが、宝石のように蒼く煌めく瞳には、慈愛が込められているように感じられた。
「ヒサキ、待たせたようだな」
いや、すまない。少しばかりではないが意味の方がと、失礼な返答をしようとした口を必死に閉じる。
久方振りに対面出来た嬉しさもそうだが、彼女の闇を思い返したからだった。
英断を選択した少女。穢れを知らない聖母。感謝してもしきれる事は未来永劫としてない、エヴァンジェリンさんは尚も続けた。
「さすがの小林氷咲、といったところか。
この私が京都に降り立った時点で、お前の描いた策は成った。
まさか、一度も戦わずして、一度の変身もせずして、相手の思考を誘導し、時間を稼いで見せる、とはな」
たちまち、周囲がしんと静まり返る。いや、BGMとしての咆哮は喧しいほどではあったが、俺の脳内はそれを打ち消していた。
傍らに立つ桜咲さんが、息を呑む。
「ま、まさか、小林さんは……この時を待っていたんですか」
「ああ、この私としても恐れ入ったよ。
全ては、コイツの掌の上にあったに過ぎない。
いつ把握したのかは知らんが、いや、じじいの行動も予測済みだったという訳か。
まさか、麻帆良にいるはずの私、という不確定なものまで策に組み込んでいたとはな。
コイツは愚者でありながら、シビアなリアリストでもある、という事だ」
エヴァンジェリンさんは、心底、愉しそうに口許を歪ませた。
桜咲さんの唖然とした表情が、印象に残る。
背後の方向から、神楽坂さんの不思議さを隠さない疑問の声が響いた。
「え? ごめん。どういう事?」
「カァー! カァー!
情けねぇ! 姐さん、情けねぇ!
小林の旦那はなぁ……」
まるで、同時多発テロのように、俺を中心に騒動の火の手が上がっていく。
俺はというと、エヴァンジェリンさんと同様に、苦笑を隠せなかった。
全く持って、だ。
全く持って、意味がわからなかったからである。
心に住むミニヒサキはというと、その場で意識を手放し深い眠りについていた。
苦悶の表情で、譫言のように呟く。
うん。
意味がわからない。
白髪の少年の台詞を拝借させて貰うのならばと、内心で呟く。
幻想の世界も、何もかもを捨てて……リアルヒサキの方も就寝させてはくれないか、と。
だが、そのように切実に願ったとしても、追っ手は止まる事を知らないようだ。
際限などはない。最早、無限なのだよと嘘ぶかれても、俺は無条件に信じる事が出来るだろう。
面食らっている俺をよそに、桜咲さんが口を開いたのだ。
その瞳は異様に力強く、その声音は意を決したように揺れてはいない。
先程の泣き顔はどこへ行ったのか。
真正面から俺を見つめる様は、例えるならば、雛鳥の一人立ちを彷彿とさせた。
「小林さん!
いえ! ひ、氷咲さん!」
「ぬ」
俺は、ただ見つめた。
いきなりのファーストネームを叫ばれた事に、思考が飛んでいただけではあるのだが。
桜咲さんの瞳に、俺が映り込む。その頬は強張り、仄かに朱が差していた。
彼女の特徴的な髪型。サイドポニーテールが、振動に上下する。
それは、薫風に踊らされる稲穂のように見えた。
「……氷咲さん。
あなたは、ゆっくりで良いと言ってくれました。共に前に進もうと言ってくれました。
ありがとうございます。
ですが、今、なんです。過去の私と決別するのは。
今じゃなければだめなんです」
桜咲さんの左手が、握り拳へと変化していく。
不安からか、身体は小刻みに揺れていた。だが、相反するように、瞳には並々ならぬ決意の色が浮かんでいた。
視線が、ぶつかり合う。
知らず知らずの内に、俺の苦笑はなりを潜めていた。真摯に、彼女を見据える。
過去との決別。心情の吐露。未来への希望。彼女は今、穢れのないその心の翼を、羽ばたかせようとしているのだから。
理由はわからない。俺の必死な言葉、からかも知れない。神楽坂さんやネギくんが、背中を押していてくれたのかも知れない。
だが、一つだけわかる事があった。
自然と、当然のように、心が震えてしまうのだ。
自分の事のように、途方もなく嬉しい。微力でも、彼女の力となれたという結果が。
「氷咲さん……、あなたのお陰で、私は私の産まれた意味を知りました。
だから、氷咲さんになら、あなた達になら……。
私はもう、迷いません」
桜咲さんはその声を合図に、徐に目を閉じた。一拍の後、背中を丸めると背筋を伸ばした。
その、瞬間の事だった。
突如として出現した、無数の白色の物体が、俺の視界をかすめたのだ。
周囲の空間を、粉雪のようにヒラリヒラリと舞い散って行く。
俺は、目を見開いた。見開かざるを得なかった。
その白色の固体は、純白の羽。月明かりに照らされて、煌めき輝く。
その出所は、彼女の背中に生える、大きな天使のような両翼から生み出されていた。
目を奪われる。致し方、ないだろう。
それほどまでに、美しかったのだ。
桜咲さんと純白の翼。それらが合わさって生まれる破壊力は甚大であり、俺の琴線に触れるばかりか、鋭利にもえぐって行った。
そうか。そう、だったのか。
人は仮初めの姿。彼女は、天使だったのだ。
吸血鬼もこの世に存在している。それならば、天使が存在していてもおかしくはなかった。
「ふぅーん」
「あの、アスナさん? どうしたんで……」
「きゃう!」
惚けを隠せそうになかった。
未だに、今生の身でありながら、まさか天使と拝謁出来ようなどとは想定外に過ぎる。
前々から思ってはいたが、神楽坂さんは誠に恐れ多いお方である。
現状、不敵にも、清らかなる翼に頬ずりまでする様は正に縦横無尽。万夫不当。
脳裏に否応もなく、ある文章が通り抜けた。
一騎当千。この世に彼女に敵うものなし、と。
呆け、からだろう。
一連の騒動を、赤子のようにただ眺めていた俺は、意識を覚醒させられた。
それは眼前に、美しき天の使い、桜咲さんが立っていたからだった。
どうしたのだろうか。不思議に思えた。
瞳は充血し、頬も紅潮していたからだ。恥ずかしそうに、指と指を絡める仕草のおまけもついていた。
さすがに可憐過ぎるだろと、内心で突っ込む。
俺は心に決めた人がいるのだが、彼女は危険だ。エマージェンシーコールが鳴り響かなければ、危うく意識を持っていかれる所だった。
その時、ふと脳裏に、彼女との短かくも濃い思い出が連鎖するように蘇っていった。
そして、俺はその意図に気付いた。
間違っているかも知れない。だが、桜咲さんに巣くう闇の正体が露わになった気がした。
人との違い。人種の違い。俺には理解する事は叶わないが、そうなのかも知れなかった。
「あの……氷咲さん。どうで」
「きれいだ」
彼女の声を、遮るように言った。
そうしなければならないと、直情的に考えたからだった。
自らの思慮の浅さに苛立つ。神楽坂さんこそが、揺るぎのない正解を導き出していたのだ。
俺は何を、勘違いして呆けていたのだろうか。
彼女は、天使なのかも知れない。人間には、属さないのかも知れない。
だが、声高らかに叫びたい。
それが、どうした。それが、どうしたというのだろうか。
俺は、彼女が心優しい事を知っている。
俺は、彼女が真面目過ぎて、思い込みやすい事も知っている。
彼女は、桜咲刹那だ。それ以外の肩書きなど、重要ではないのだ。
なぜならば彼女は、こんな俺を慕ってくれるのだから。愛すべき妹のような存在、それに変わりはないのだから。
「え?」
桜咲さんが目を見開いた。
俺はその様に、苦笑してしまう。
彼女の揺れる心を定められたらと願いながら、口を開いた。
「その翼は、綺麗だ。
きみが何者でも関係ない。
俺は、俺達はきみを信用しているって、言っただろう?
それは今でも、これからも変わる事はない。
なぜならば、きみはこの世界でただ一人しかいない、桜咲刹那なんだから」
再度、桜咲さんは目を見開いた。
その様がおかしくて、皆が笑う。ほどなくして、桜咲さんは大きな声を上げた。
その口許に浮かべられた心からの笑みは、今までに見た事がないほどに爛々と輝いていた。
「はい!」
「フン。
おい、桜咲刹那。近衛木乃香は良いのか?」
「あ」
桜咲さんが慌てて翼を広げると、どこかへ向かい駆け出した。
そして、夜空に飛び立とうとする最中、俺を見つめて言った。
「氷咲さん。いってきます」
「ああ。いっておいで」
桜咲刹那という少女が飛び立つ。
その純白の翼は、未来への希望を乗せているように思えた。