次から始まる裏で、第二章終了となります。
その暗闇を沈み行くものは——表その肆
—小林氷咲side—
胸中に抱く決意をそのままに、桜咲さんは霧がかった夜空へと飛び立って行った。
過去との決別。未来への一歩。霞むおぼろ月が見下ろす上空から、無数の清き羽が落ちて来る。
両翼を精一杯にはためかせる姿は、正に神秘的な情景。フフフと口許に笑みを浮かべると、ふと思う。
それにしても、彼女はどこへ向かっているのだろうか、と。
化け物に向かい速度を上げているようにも推測できるが、さすがにそれは杞憂というものだろう。
あのような人外魔境を地で行く化け物に、関わろうとする訳がないからだ。
だが、そうではない。わかりきっている。俺は、認識しているではないか。
目を閉じて、軽く首を左右に振る。程なくして、目を開いた時には、大分、小さくなっていた少女の姿を捉えた。
空気抵抗を受けながらも、不規則なリズムでゆっくりと落ちて来た白い羽。それを片手で掴むと、風情ある月夜に翳して願った。
願わくば……彼女の勇気ある一歩に作用されて、希望の明日が待ち構えてくれていますように、と。
再度、含み笑いを漏らした。
さあ、皆を伴い、早々に帰路につこう。そう、満足げに頷いた時の事だった。
傍らに立っていたエヴァンジェリンさんから、声をかけられたのだ。
「おおお、おい。ヒサキ」
どうしたのだろうか。疑問に思えた。
先程の圧倒的覇者、なまでの威圧感は、影も形もなかったからだ。
表情はピクピクと強張っており、普段の彼女のそれではなかった。その宝石のようなまでの蒼い瞳は、どこか揺れて、くすんでいるようにさえ見える。
正直、面食らっていた俺は、思考がストップしてしまう。黙ったまま、彼女を見つめた。
すると、尋常ではないほどに意味不明であり、火事場の渦中に落とされたというほどに必死過ぎたからであろうか。
膨大なまでの疑念の大嵐が、脳内を占拠し暴れ狂い始めたのだ。
突然の物理法則の無視に始まり、白髪の少年の狂乱めいた言動。摩天楼を彷彿とさせる化け物の出現に、影からその身を現した少女。
一応、推測をしてみようではないか。
物理法則の無視と、白髪の少年に関しては、完全にお手上げである。
化け物も論外。理解出来ているのは、さすがに天使や吸血鬼などがいれども、俺達の手に終えるものではないと思える事だけ。
それは、自衛隊の皆さんにご足労願うのが妥当である。自衛隊の皆さんで倒しうるのかは、甚だ、見当もつかないが。
目前の彼女に関しては、吸血鬼だからだろうか、という解しか導き出す事は出来ない。
俺は思考を打ち切った。
意味など、ないからである。俺の能力では難易度が極めて高くあったし、摩訶不思議過ぎたのだ。
現状、俺に取って、常識の枠組みを軽々と超越してしまう事態は、考えても仕方のない事と同義と言えた。
その上、今日という一日は、俺のキャパシティなんてものを遥かに超えていた。半ば、暴発の憂き目に遭ってもいたのだ。
確かに、並々ならぬ成果もある事にはある。だが三半規管の崩壊に、倒れ伏しそうな倦怠感という由々しき事態までも呼び込んでいた。
あまつさえ、あまつさえである。
なんと、茶々丸さんをホテルに残してしまっているのだ。それは例えるならば、スラム街を全裸で悠々と歩く女性ほどに極めて危険だと言えよう。
何よりも京都は、喧しくも天を衝く咆哮を上げる化け物が生息する地、なのだ。
それならばホテルの方にも、赤や金などの、色違いが出現していてもおかしくはない。
やはり、これは急務なようだ。
天使がいようが、吸血鬼がいようが、俺は年長者なのである。学園長の依頼が終わろうが、関係はない。皆の安全を守る事こそが、役目だと思えた。
ネギくんも疲労困憊のようであるし早急に、だ。
上空で、可憐にもはしゃいでいる桜咲さんを呼び戻し、ホテルへと避難しようではないか。
安全を確認後に解散する。そして、最重要懸案である、リアルヒサキの方の就寝を選択するすべきだと言えた。
ならばと、エヴァンジェリンさんにそうやって進言しようとした時だった。
彼女が何やら、慌てていたのである。
正に夢も希望もない、といったほどの青い顔を隠そうともせずに。
「ち、違うんだ。
い、いや違わないが、わ、私はお前を思ってだな……」
再度、その弱々しき声音に目が点になる。だが幸いにも、俺の脳はその回答を導き出してくれた。
彼女の言葉から察するに、俺をこの化け物の魔手から救いに来てくれたのだろう。わざわざ麻帆良から、この遠い京都にまで。
だが、一瞬の内に、自分自身に対する憤りが膨れ上がっていく。内心で、独りごちた。
そう、か。
そういう事、だったのか……!
不安げな表情は、可愛らしさを半減させていた。夜風に揺れる毛髪は、儚さを演出する。
彼女は強く心優しい女性だ。俺を想い、英断をしてくれた少女。だが、その心は繊細で、壊れやすくもあるとわかりきっていたではないか。
思い返してみて、気付いたのだ。
未だに俺は、彼女と会話さえしていないという事実に。
もしかしたらだが、彼女はまだ、俺を想ってくれているのかも知れない。報われぬと、理解していながらも。
自らに腹が立った。なんという仕打ちを、していたのか。
物理法則に化け物、そんな言い訳は許されない。冒涜以外のなにものでもない。何より俺が、許さない。
彼女が今後、恋愛のトラウマに冒されないように、見守っていこうと決意していたというのに、俺は。
フツフツと煮えたぎる憤慨を無視して、彼女を真正面から見据えた。
俺は彼女に、お礼の一つも言っていない。
今、俺には言いたい事が、言うべき事が、確かにあった。
「エヴァンジェリンさん。
ありがとう。助けに来てくれて。
きみが来てくれなければ、俺はどうなっていたかわからないよ」
エヴァンジェリンさんの目が、見開かれた。
時が制止したのではないかと錯覚する静寂の後、徐々に、彼女の口許は歪んでいく。
先程の青い顔は、どこへ行ったのだろうか。
どこか恥ずかしそうに浮かべられた悪戯な笑みは、いつもと変わらない。
その愛らしい仕草に、俺は笑みを漏らした。
「そ、そうか。と、当然だな。
ま、まあ、お前と言えども、あのデカブツの相手は厳しいという事か。
そ、その、あれだ。か、感謝しろよ」
「ああ。感謝してる。
というかエヴァンジェリンさん。きみには、感謝しかしていないし、そんな騒ぎではないよ」
「そ、そうか。
ま、まあ、良いだろう。
わ、私は慈悲深く偉大だからな」
「大丈夫。そんな事は出会いの時から、わかりきっていたからね。
エヴァンジェリンさんが、慈悲深く素敵な女性だって事は」
「お、お前は恥ずかしげというものを……。
……と、とりあえず、見つめ過ぎだろ!
あ、アッチを向け!
わ、私が良いというまでコッチを見るな!」
頬を朱に染めて、肩をいからせて叫ぶ。
だが俺は、含み笑いを漏らしていた。何やら、起こられてしまったようだが、内心は満足感に満ちていたからだった。
「おい! 何を笑っているんだ!」
さあ、みんな帰ろう。
そうやって皆に、一声を放とうとした瞬間の事だった。
俺の目は、有り得ない光景を映していたのだ。
それは未だに、喧しくも唸り声を上げている化け物の方角。非科学的な境地が広がり続けている、一角だった。
なんというか、なんというかである。
説明をするのならば、こういう事だろう。
夜空を翔ける少女。桜咲さんは刀を構えて、人知を置いてけぼりにしている化け物と対峙していた。
「おい! 無視をするな!」
いやいや、危険過ぎるだろ、と内心で突っ込む。
誠に申し訳ないのだが、エヴァンジェリンさんの怒声が耳に入る事はなかった。
天使というものは、俺の予想を遥かに超えて、強いのだろうか。いや、しかし、と困惑からか、どうでも良い議論が白熱していく。
その時、桜咲さんは速度を上げて、化け物へと突っ込んだ。
小さな閃光が、瞬く。知らず知らずの内に両手は、握り拳をつくっていた。
だが俺は、深く安堵した。
平穏無事と、桜咲さんはその姿を現したのだ。
良かった、と心の中で呟く。
だが不思議な事に、その胸には、見覚えのある少女が抱えられていた。
長めの黒い毛髪が、突風に揺れる。その少女は、京都一日目の演劇の練習にて、桜咲さんが救出した少女のように思えた。
その時、だった。
脳髄に雷が落ちたかと錯覚するまでの衝撃に、打ち抜かれた。
そう、だったのか。
全ての謎は氷解した。
熾烈にも俺を苦しめていた疑問全てに、終止符が打たれる。正解の文字に烙印が押されると、煌々と輝いていた。
そう、だ。全ては、演劇、だったのだ。
そのように考察すると、点と点が、面白いように繋がっていった。
全てではないだろう。
天使や吸血鬼などといった、変えようのない真実もあるのだろう。だが、この騒動は演劇だったのだ。
観客がいない事や、カメラはどこだとの疑問はある。化け物もそうだ。だが、それは吸血鬼や天使が持つ能力により説明がついた。
根拠については、至極、簡単である。
桜咲さんが胸に抱く、黒髪の少女だ。それに化け物の肩にて佇む、眼鏡をかけた艶やかな巫女さんの姿が物語っていた。
顔が、酷く熱くなっていく。
俺は、なんという、シリアス空間をつくり上げていたのだろうか。
間違いのない、愚か者。際限のない、馬鹿者。自らの勘違いレベルの高さには、逆に見事と言いたいくらいだった。
途中でカットが入らなかったのも、本番だったからだろうと説明がついた。
そう推測すると、白髪の少年はなんて機転のきく、良い人なんだろうか。
このような滑稽なまでの乱入者を生かすために、アドリブで対応してくれるなんて。
間違いない。彼は将来、日本を代表する有名な俳優となるだろう。
「と、とりあえずだ!
ヒサキに小僧、私を見ておけ!
このような大規模な戦いにおける魔法使いの戦い方を、お前らに見せてやる!」
「はい」
神楽坂さんに介抱されたままで、ネギくんは呟いた。
羞恥から、呆然としている俺をよそに、エヴァンジェリンさんは中空に浮遊していく。
化け物を愉しそう笑みで見据えると、大きな高笑いを上げた。
なんと、あの化け物を倒すようである。危険だとは思えたが、演劇であるならば問題はないだろう。
「ハーハッハッハッ!
お膳立ては、ばっちりのようだな。
よし、茶々丸、結界弾を放て」
辺りに、容赦なき沈黙が広がっていく。
一拍の後、エヴァンジェリンさんは何かに気づいたかのように肩をいからせた。
「おい! 茶々丸ってそうか!
ヒサキ、茶々丸はどうした!?」
茫然自失。半ば現実逃避を敢行する俺は、力なく呟いた。
「茶々丸さんはホテルにいる」
「な、なに!
姿が見えないと思っていたら、そうか……。
ま、まあ、任せておけ。
私が少々、本気を出せば良いだけ。結果は変わらん」
なんと、茶々丸さんも演劇に関わっていたのかと、霞み行く脳裏で考えていた時、だった。
俺の肩口に腰掛ける無法者。半ば、存在を忘れかけていた死神さんが、これまた愉しそうにケケケと笑ったのだ。
そして、その笑い声には、余りある意思が込められていた。
レイン。俺が動きを止めよう、と。
死神さんの人称は俺だったのか。それにまたレインとは如何にと、少々、驚きを隠せなかった。
そのまま、オウム返しの要領で呟いてしまう。
「俺が動きを止めよう」
「フッ、そうか。
ヒサキ。お前の真の力をこの私に見せてみろ」
ふと、おぼろげながら違和感に気付いた。
どうしてだろうか。
いつの間にか俺の格好が、漆黒の死神スタイルに変化しているではないか。
とりあえず、死神の指示通り、化け物へと鎌を翳す。そして、呟いた。
「蓄積魔力を解放する」
その瞬間の事だった。
眼前に、凄まじき光りが迸ったのだ。
反射的に目を閉じる。その刹那、俺の身体は、突風を受けて運ばれる木の葉のように吹き飛ばされていた。
鎌を掴む右手に、激痛が走る。いや、右腕が消し飛んだのではないかと思えた。
うん。
意味がわからない。
息が苦しい。身体全体に、刺すような冷たさを感じ取った。
混濁していく意識を振り切って、目を開く。周囲は闇に閉ざされていた。
ああ、そうか。何となくで、理解出来る。
口からは、ゴボゴボと気泡が吐かれているという事は。
俺は身体は湖に、沈んで行っているのだろう。暗闇が支配する湖の底へと。
右腕の熱も、冷たさも感じなくなってきた。
意識が閉じ行こうとする最中、俺はある少女の姿を視認した。
小鳥の囀りは、早朝を告げる合図のようだ。涼しくも穏やかな風が、頬を撫でていく。
ベッドの柔らかさは、まるで麻薬のようだ。仄かな柑橘系の香りが、微香をくすぐった。
何の匂いだろうか。ゆっくりと、瞼を開いた。
とりあえずで、身体を起こそうとするが、それが叶う事はなかった。
両腕も両足も、何らかの重みによって押さえ込まれているようなのだ。
顔だけを上げて、周囲を探って見る。
そして俺は、自らの目を疑う事になった。
なんなんだ、この光景は。
何が、どういう。
そこには、どうしてか皆が、俺に覆い被さっている光景が広がっていた。
全く持って、意味がわからない。意図が掴めない。
左手にエヴァンジェリンさん。右手には、桜咲さん。足下にはベッドにもたれかかるように神楽坂さんが眠っていた。
内心で突っ込む。
最強装備過ぎるだろ、と。
この装備であるならば魔王討伐も容易いと、現実逃避している俺に、鋭利な視線が突き刺さった。
その視線の主は、側に立っていた。この世の女神の名を欲しいままにする、茶々丸さんだった。
抑揚のない表情ではあったが、俺には気づけた。気付く事が出来てしまった。
その声は微かな、怒りを含んでいた。
「……お兄様、私は怒っています」
俺は抗う暇も与えられず、意識を手放した。