その暗闇を沈み行くものは——裏
—桜咲刹那side—
「やっと来たようだね。
まあ、これも血筋。因縁なんだろう。
きみの今の名前を教えては、くれないか。
知っていると思うけど、一応、言っておくよ」
声音を切欠に、それは小林さんの背後に展開されていた。
闇を媒体としたのか、紫色の半円形の魔法障壁は妖しくも明滅を繰り返している。
戦場での挨拶と言わないばかりに、白髪の少年の直突きが突き刺さっていた。
とてつもない反射速度が為せる業か、あるいは、未来を先読む慧眼の為せる業なのか。
小林さんは一歩も譲らない。隙などはない。いや、隙があるとするのならば、それは奈落へと手招きする誘惑の一手。
強大無比なまでの衝撃。攻撃と防御の激突は、拮抗していく。両者の前髪は舞い上り、相容れない志、双眸を露わにしていた。
抱かれたままで身動きの取れない私の皮膚を、濃密な殺気がチリチリと焦がしていく。
世の中を突出した者同士の対峙。鋭い視線の交わりは、他者を寄せ付けない。
絶対の領域がそこには在った。
吹き荒れる突風にさえも、極めて明らかなまでの死の臭いを孕んでいた。
「きみの父親を殺した憎い仇は、僕だ」
無慈悲な声は放たれ、私の心に深く突き刺さる。
この京都にて、仇と復讐者、両雄は並び立ってしまった。
まるで、兄弟のような無表情の仮面を被り、互いの含意を持った視線は、薄暗闇の中央で交じり合う。
だが、私にはわかる。わかっていた。
無表情の裏に隠された小林さんの凛々しき顔が、微細にも歪んでしまっているのを。
小林さんの事ならば、誰にも負けたくはない。いや、負けるつもりなど毛頭ない。だからこそ、気づけていた。
紫色の仄かな輝きに縁取られる彼の表情に、明確な陰が差しているのを。
暴風に踊らされる前髪。変則的に見え隠れするその瞳が、憤慨の猛火にくすんでいるのを。
支えたいと、願った。
ただ、護られるだけの小娘などでは許されない。
小林さんに巣くう全てのしがらみを打破し、護ってあげられる存在になりたいと、切に願っていた。
大きな満月が張り付く夜。闇に閉ざされた大停電の夜に、私の眼前で、エヴァンジェリンさんがいとも簡単に解いてみせたように。
それならば、いつか必ず、私も解いてみせるのだと決意していた。
今でも、これからも、それは変わらない。時を経ても、色褪せる事はない。誰も、二人の絆を邪魔する事は出来ないと、そう思っていた。
だが、結果は無残だ。
私は、勘違いをしていた。成長しているなどと愚かにも嬉々とし、自らの力量を過信していた。
今も尚、今も尚だ。私は護られるだけの小娘で在り続けている。その上、小林さんの期待を裏切り選択を誤っていた。
彼の苦悩の根源。心の内壁にはびこる蔦、暗闇。やっと、再生への兆しをこの手に探り当てたはずだったのに。
やっと、誰よりも一歩先に、息づかいさえ聞こえるほど間近に、踏み出せていたはずだったのに。
完全なまでの失態。思慮の浅い、愚かな行動。ただ単に、私の力不足が招いた失敗。
だが、彼という人物を計り兼ねた訳ではない。私は彼を知っている。冷静な私ならば、脳裏に思い描き推測出来たはずだ。
だが彼の意思よりも先に、私は自らの憤怒、激情を優先させてしまったのだ。
だが、いや、とふと脳裏を過ぎる。
果たして、そうなのだろうか。私は本当に、怒っていたのだろうか。
疑心暗鬼に囚われる。自分自身さえもが、信用出来なくなっていた。
コーヒーにミルクを垂らしたような疑念の渦が、心の内部を占めていく。
一瞬の後だった。程なくして、信じたくはないが、その答えは浮かび上がった。
内心で、苦虫を噛み潰したかのように呟く。
汚い、と。
その答えが正しいと仮定するのならば、自身の存在が、酷く浅ましいものに思えた。
私は知らず知らずの内に、私自身を騙していたのではないか。計算の上での行動だったのではないか。
小林さんとは間逆に位置する、打算的な姿勢で動いていたのではないか。
冷たい何かが、背筋を通り抜けた。その冷たさを呼び水に、酷い悪寒が身体中に生じていく。
その結論は、こういう事だった。
私は気づいていた。どこかで、小林さんは見守ってくれているはずだ、と。
だからこそ私は、誉められたくて、評価して欲しくて、あなたのためならばここまで出来るのだ、と誇示していたのではないか、と。
怖い。怖がった。恐怖におののいてしまう。
真実がそうだとするのならば、私は私を到底、許す事などは出来ないのだから。
突如、喪失感や虚脱感に襲われる。
まるで、胸に大きな風穴を空けられたかのよう。卑しき内情が、その穴からこぼれ落ちているかのように感じた。
私は、気づいてしまったのだ。
小林さんの瞳は、全てを見通してしまっているのではないか、と。
それはつまり、私の浅ましき心さえも、見透かしているという事に他ならなかった。
問いたい。真実を、問いたかった。
だが、そんな勇気などはない。
なぜならば、私に取って問うという事は、二択で死へと向かうのと何ら変わりないのだ。
失望。失望されたかも知れない。失望されてしまった。
たったの二文字の言葉が、走馬灯のように、脳裏をグルグルと廻る。
また私は、独りきりに、孤独へと遡ってしまうのだろうか。
また私は、あの身を切るような切なさを抱え、怯えたままで逃げなければならないのだろうか。
最期の生命線。私の身体に伝わる彼の体温さえも、その暖かな優しささえも、霞に消えるように失ってしまうのだろうか。
このまま、時が止まれば良いのにと思う。時が止まれば、この温もりを手放さずにすむ。いやいっそ、時が逆戻りすれば良いのにと願った。
だが、現実は無情だ。
時が止まる事などはないのだ。動き始めてしまった針は、鏡のように現実を映し出し始める。
そして、私は失った。
残されていたその温もりさえも、私は失ったのだ。
小林さんはこちらの方など見向きもしないままに、私を地面へと下ろした。
「あ」
そんな声が、漏れ出ていた。
色々な想いが、生まれては消えていく。その一文字に、全ての内情は集約されていた。
膨らんだ風船が割れたかのように、止めどない感情は、表面にさらけ出されていく。
後悔。焦り。抵抗。それらの感情が一緒くたになり、私の頬を涙となって伝った。
前に進め、と命令が発せられる。原宿の夜、小林さんが示してくれた意思が今更になって、私の背中を押した。
後はない、と脳裏に怒声が響く。
その通りだ。後などはない。あるのは今だ。今、進まなければ、後悔する。触れられなくなってからでは、遅いのだ。
息苦しい。頭が痛い。身体が、ギシギシと強張る。それらを無視して、私は言った。
「こ、小林さん……。
ち、違うんです。……わ、私は!」
そんな小さな声は、大きな言い訳は、辺りに沈む。
小林さんはゆっくりと振り返ると、こちらを真正面から射抜いた。
涙の羞恥など、忘れていた。人前である事も、忘却の彼方に消えていた。目を合わせる事さえ、恐怖心がさせなかった。
俯き、言葉を待つ。
数秒の時間が果てしなく長く、険しくさえ感じられた。
幾ら待っても、声は降って来ない。私は意を決して、顔を上げた。
やはり、そこには、明確な怒りが存在していた。
小林さんの身体は、小刻みに揺れている。左手は強く握り締められていた。
黒色の瞳は歪みを隠さないままに、私を責め抜く。
心が、張り裂けそうになった。
死よりも怖いものが存在する事を、身を持って知る。
だが、次の瞬間だった。
私は信じられないものを見たのだ。自らの目を、疑ってしまう。
未だに、怒りから、小林さんの身体は強張っていた。握り拳から、血が滴り落ちていた。その瞳は、くすんでもいた。
だが、その口許に、微笑みが浮かべられたのだ。
呆ける私へと、彼の口が開いていく。その声音は、戦場を駆け抜けたような気がした。
「桜咲さん」
呆けていた意識が、覚醒した。
止まっていたはずの針が、次第に弧を描き始める。
小林さんだからこそ。小林氷咲という男性の声だからこそ、自らの名前を呼ばれる事だけでこんなにも愛おしく感じられる。
絶えかけていた細胞さえも、息を吹き返したような気がした。
だが内情は恐怖に、焦燥に震えていた。
状況は何も変わってなどいない。二の句には、その口から拒絶の言葉が発せられるのかも知れないのだから。
「はい……」
「きみの心に、闇が巣くっているのは知っている。
だけど、それを俺が肩代わりしてあげる事は出来ない」
わかっていた。わかってはいたのだ。
だが私の脆弱な心は、あるはずのない、救いを求めてしまった。
はっきりとした拒絶の言葉。見える何もかもが、彼の強張った微笑みさえもが、モノクロへと変化していく。
心の中で、放心したまま呟く。
ああ、私は、本当に失ってしまったのだ、と。
喪失感が身体へと伝わっていく。
だが降って来た声でまた、私の意識は覚醒へと向けられていった。
「確かに、肩代わりはしてあげられない。
だけど俺は、未熟者は未熟者なりに、素直にこう思うんだ」
そんな事はない。叫びたいほどに強く、思えた。
弾かれるように言う。
全ては私の不手際のせいだ。
あなたは、何も悪くないのだ。幾度もあった機会を逃して来たのは、私自身なのだから。
「こ、小林さんは未熟などでは……!
わ、私の方こそが足を引っ張ってばかりで……」
言いながら、その通りだと内心で頷いた。
隠しきれない想いが、忘れられそうもない想いが胸中を巡り行く。
小林さん。あなたは穏やかで優しくて、他の何よりも気高く人間らしい存在です。
私などとは違い、道を誤る事のない存在。世を憂い、導くために産まれた存在なんです。
心が痛む。内心で苦笑した。
元々、私が想えるような存在ではなかったのだ。そのような器量などなかったのだ。
だからこそ、あなたが気に病む必要はないんです。
私には、わかる。今も尚、あなたが苦悩しながらも一歩一歩、着実に進んで行っているのを。
あなたのような人が私などに構い、無駄な時間を浪費してはなりません。
だから、笑って欲しいんです。
私は見れなくても構いません。だから、これからも、普段のような微笑みを絶やさないで下さい。
それが、私の願いです。
本心だった。
それに例え、小林さんであっても、小林氷咲という男性を悪く言われるのは許容出来なかった。
伝わったのだろうか。それとも最後の、はなむけ、なのだろうか。
彼が普段のような、私が恋焦がれた微笑みを見せてくれる。
曇りなどないその微笑みは眩しい。
だが、私の胸に鈍痛を響かせた。
「苦悩に立ち止まる事もある。過ちに落ち込む事もあると思う。何もかもを信じられなくなる事も、あるだろう。
それでも良い。それでも、良いんだよ。今は、それで良い。
なぜなら、俺はきみを信じているんだから」
思考の針が、止まった。吊られるように呟く。
「私を、信じて……」
そして、その届けられた言葉の意味に、私の目は見開かれた。
まさか。そんな事が。こんな無様な私を。
未だに、小林さんは信じてくれているとでもいうのか。
信じ、られなかった。失ってはいなかったのだろうか、私は。
小林さんは虚空を見やってから、私の目を見つめた。私はただ、呆ける。
普段の所作だったのだ。
その瞳は慈愛に濡れて、その微笑みは私へと向けられていた。
「ああ、そうだよ。
俺はきみを信じている、という事を信じてくれないかな。
桜咲刹那という女性は、心の翼は、いつか必ず、心の闇に打ち勝ってくれると信じている、俺を。
それにきみには、ネギくんがいる。神楽坂さんがいる。俺もいる。
きみは一人なんかじゃないんだ。
絶対に打ち勝てる。そう、みんなも、俺も、きみを信じているんだから」
その声は、私の心を癒やしていく。
心に広がりはびこっていた暗闇など、一瞬でかき消した。それだけの力を、小林氷咲という魔族の男性は持ち得ているのだ。
はなむけなどではなかった。また私は、小林さんを信じる事が出来る。彼に寄り添う事が出来るのだ。
信じて、信じられて、そんな当たり前の事が嬉しい。嬉し過ぎた。
私は、幾度も失敗を繰り返した。彼は幾度もそれを許し続けた。
こんな事が、あるのだろうか。
いや、また私は見誤っていたのだ。小林さんの器量を計り兼ねていた。彼は私の予想を遥かに越えて、大き過ぎる。
そして、尋常ではないほどの愛情を持って、私を見守ってくれていたのだ。
なぜならば彼は、こう言ってくれたのだから。
きみは一人なんかじゃない、と。
未来永劫として、俺が共にいる、と。
心からの声が、漏れ出た。
最早、感謝しかなかった。私は彼に感謝しかする事が出来ない。
だが、悔しくはなかった。
頬を水分が伝う。それは、嬉し涙だった。
私は、今日これから、禁忌の翼を誇りに思う。翼がなければ、私は彼と出会う事はなかったのだから。
「小林、さん……」
桜咲刹那が、禁忌が産まれた意味。悩み苦しんだ意味。それは、小林氷咲の咎を共感し、彼を支えるために在った。