その暗闇を沈み行くものは——裏その弐
−ネギside−
「憎悪すべき仇を目の前にしても、スクナノカミが復活されようとしていても、きみは変わらない。
その異常なまでの、冷静さを失わない。
流れる血は、健在のようだね。
これで、確信した。
やはりきみは、僕の思い描く人物に間違いない」
夜風にさざ波立つ湖畔に響く、確信めいた声音。桟橋の上で、再度、ヒサキさんと白髪の少年の視線はぶつかり合いました。
霧に覆われる月下、復讐には、とても似つかわしくない幽寂なまでの正面対峙。木々の葉を揺らす音だけが、鼓膜を震わせていました。
ですが、それは違います。
二人の身体中から醸し出される覇気のような揺らめきは、何人も足を踏み入れられない絶対の領域のよう。独りでに畏怖めいた感覚を覚えていました。
地に倒れてアスナさんに介抱までされている有り様の僕とは、決定的なまでに違う次元にいる両者。表情を消して、相手の動向を伺っています。
心中を、多種多様な思いが騒ぎました。
小林氷咲。先読みの天才。表裏一体なる奇術師。
尊敬する人。憧れる人。目指す人。
僕のパートナー。並び立たなければならない人。だけど未だに、その背中は霞むほどに遠く、指先さえも届きはしない。
ヒサキさんの微動だにしないその背中は、ある事柄を物語っていました。
今も尚、思い描いているのでしょう。
類い希なその頭脳は、僕には到底及びつかないこの先の未来を。そして、幾重にも張り巡らされた、必勝への道筋を。
自然体故に、油断のない立ち姿。説得力のある男の背中を見据える度に、胸中に募る寂寞の思いは増していきます。
頼もしいはずなのに。嬉しいはずなのに。安堵感からか、意識がはっきりとしていないはずなのに。
僕は悔しくて、悔しくてたまらない。
悔しさだけは、時が経つにつれて、砂時計の砂のように降り積もっていく。
自分自身の至らなさへの苛立ちは風刃となり、執拗に僕の身を切っていきます。
僕はどうして、こんなに弱いんだろうか……。
そんな弱音、愚痴が、脳内を叩きつけていました。
あれだけ大口を叩いたのに、アスナさんにあそこまで怒鳴られたというのに。
僕はやり通せなかった。
挙げ句の果てには、ヒサキさんにまで怒られて、ダメな人間だと失望されてしまった。
それは確かに、本心からの行動でした。
許せない。僕は自身の無知を許せなかったんです。
燃え上がる激情に身を任せて、浅はかな行動を選択してしまった。
結果は散々たるもの。
暴走から意識を失い、我に返った時には魔力切れ。気だるい四肢は激痛を伴い、動かない。息苦しく、思考さえもはっきりとしない有り様です。
ですが、わかっています。わかりきっていました。
現状として、ヒサキさんが駆けつけてくれなければ、敗北は必至だったという事実は。
痛烈に、痛感させられました。
僕は、僕達は、危険と隣り合わせの世界を踏みしめているんだ。下手をしなくても、命を落としていたかも知れない、と。
得も言われぬ恐怖感に、身体中の筋肉が硬直しました。ある未来予想が浮かび上がると共に、背筋がゾッとしたからです。
結果として、僕の考えなしの浅はかな行動は、アスナさんや刹那さんや皆を、死なせてしまっていたかも知れないんだ、と。
うちひしがれました。何をやっているんだろう、僕は。
ヒサキさんの聞いた事のない、怒気を孕んだ声音が脳裏に過ぎります。
「心遣いには、多大な感謝をしている。
だが、無様にも我を忘れて暴走する事が、唯一、強大な敵を倒しうる策と呼べるのか。
違う、だろう。間違っている。間違っていると、わかっているはずだ。
きみたちが今、為さなければならない事は、他にある。
冷静になれ。足下を固めろ。仲間達の顔を見ろ。
そして、俺を信頼しろ。
もう二度と、失いたくはないんだ……!」
至極当然、本当にその通りだと思えました。
僕は勇敢と、蛮勇を履き違えていた。
僕の為すべき事は、他にあった。見失ってしまっていたんです。
それは、簡単な事柄。このかさんの救出。それこそが、正に最重要な事項だったんですから。
蛮勇を振りかざし、強敵に我を通す事ではありません。結果、当然のように敗れて、皆を危険に晒す事でもありません。
途端に、頭を強く殴りつけられたかのような感を捉えました。そう、実感しました。
弱いからこそ、未来を見ろ。弱いからこそ、冷静になれ。弱いからこそ、仲間達を信頼しろ。
そして、弱いからこそ、今は、俺を頼れ。
以前から、ヒサキさんはそう、優しく示してくれていたというのに、僕は。
ああ、そうかと内心で頷きました。
危機的状況なのにも関わらず、こんな時にまで、僕は浮かれてしまっていたんだ、と。
来日して、小林氷咲という兄のような人と出会えて。その背中に、歩むべき道を示されたような気がして。
もう一度、人を暖かくする微笑みを持って誉めて欲しくて。一人前になったな、ネギくんと、早く認めて欲しくて。
それは、今の僕には真逆。存在しえない、甘い幻想。一人きりで全てをこなせるほど、僕はまだ、強くなんてなっていないのに。
初めから頭を下げて、ヒサキさんに協力を申し出ていれば、こんな結末にはならなかったでしょう。
後手に回る事はなく、このかさんを浚われる事もなく、こんな薄氷の上に立っているような状況でもなかったんです。
ですが、僕は甘く見ていた。刹那さんに言われて、誉めて貰える絶好の機会だと思ってしまった。
何よりも僕は、僕の力を過信していたんだ。
ヒサキさんが見守ってくれているというだけで、何でも出来る気がした。
そんな夢は夢のままなのに、一人きりでは何にも出来ないのは明白なのに、分不相応にも誤解していた。錯覚していたんです。
ですが、強く言えました。
僕は諦めません、と。いつの日か必ず、ヒサキさんに並び立って見せるんだ、と。
今はまだ、ただの子供かも知れません。ただの未熟者なのかも知れません。
ですが、それは今、なんです。現状に置いては、そう在るだけなんです。
ヒサキさんが微笑みを持って言ってくれたように、僕には未来がある。
いつの日か、未来を、この手に掴めば良い。遅くなろうとも、未来が決定づけられている事なんかないんだから。
混濁していく脳裏に唇を噛む事で抗い、僕はそのとてつもなく大きく感じる背中を見据えました。
その背中には、全てが在る。
強者への渇望や道筋も、自分自身への戒めも、人としての在り方も。
ヒサキさんの形作る全てに、一挙手一投足に、それは存在しているんです。
そして、ヒサキさんの行動を目に焼き付ける事こそが、何よりも、成長への道筋だと確信出来たから。
「アスナさん。
申し訳ないんですが、身体を起こしてもらえますか。
僕の力だけじゃ、どうにもならなくて」
傍らで介抱してくれていたアスナさんも、ヒサキさんを見つめていました。
聞こえていないのか、声は返って来ません。もう一度言おうとすると、アスナさんは慌てたように言いました。
「わ、わかったわ!
と、というか、アンタは大丈夫なの?」
その心配そうな声には、多大な感謝を隠せませんでした。
いつも僕を見守ってくれて、気にかけてくれて。そんな恩人に、心配させてはいけないと思えました。
耐え難い激痛を無視して、笑いました。
「はい。ありがとうございます。
動けはしませんが、大丈夫です。それにヒサキさんが来てくれたんですから、このかさんも大丈夫ですよ。
ですが僕は、見なければいけないんです。
ヒサキさんの戦いを、その姿勢を、しっかりと目に焼き付ける事が、僕が前に進むという事だと思いますから」
一拍の後、アスナさんは目を丸くして言いました。
「ふーん。そっか。
やっぱりアンタ、どことなく小林先輩に似てきたわね」
「そ、そうですか?」
「う、うん。
って、な、なに笑ってんのよ」
「す、すいません」
謝りながらも、その言葉が途方もなく嬉しく感じました。
ヒサキさんと似ているか……、と内心で笑います。
アスナさんに抱き起こされていく途中に、僕はある台詞を聞きました。
「そうだろ? レイン。
きみはヒサキ、なんていう名前じゃない。
僕は確信を持って言える。
間違いなく、きみはレイン。その名前こそが、きみを示すには最適な総称なんだ」
自然と、心の中で呟いていました。
レイン、と。
白髪の少年から放たれたその響きは、周囲の空気さえもを切り裂いていったような気がしました。