その暗闇を沈み行くものは——裏その参
—近衛近右衛門side—
麻帆良の学園長室には、緊迫感がひしめいていた。
静謐なまでに音のない部屋内は、照明に煌々と照らされている。窓の外は暗闇に支配されて、その色の濃さから嫌な予感を覚えていた。
じゃが、丸時計の時を刻む音色を打ち消すかのように、叫声は響き渡った。
「おい、ジジイ!
いつまでモタモタしているんだ!」
その声も小柄な身体も、普段は他者を圧倒する青き瞳も、熾烈なまでの焦燥に惑っていた。
登校地獄への反則的なごまかし、遥かに遠き京都への転移。やらねばならぬ事は、それこそ山ほどある。
わしはせっせと準備する手を休める事なく、エヴァの顔を盗み見た。
そんな状況ではないとはわかりきっている。
じゃが努力しても、心の内で微笑んでしまうのを誰が責められようか。
最早古き仲、永き友となって幾年も経ったが、これほどまでとはのう。
冷静沈着。傲岸不遜。魔法世界で未だに恐れ囁かれる、真祖の吸血鬼。世界に担ぎ上げられた悪の象徴。
そんな彼女が、今、迫り来る恐怖に怯えているのじゃから。
氷咲くんは正に、規格外と言っても過言ではないのう。
六百年という途方もなき歳月で培われた倫理、精神、根源を、彼は変化させて見せたのじゃから。
全く持って逸話所か、神話級の有り得ない語りじゃ。 彼女に置き換えると一瞬に過ぎない期間。たったの数週間ほどの些末な時間じゃ。
そんな大それた事は、あの大戦の英雄にさえ達成出来なかった。
じゃが、世界に選ばれてしまった齢十六の少年は、その持ち前の貴き心根を用いて、変化させて見せたのじゃ。
ふと、思う。
氷咲くんは、気づいておるのじゃろうか。あの優しき少年は知っておるのじゃろうか、と。
それはとてつもなき偉業なのじゃ。
叶う事のなかったはずの運命。悲しき不老の概念に抗われて終えるはずだった夢。
それはまるで、夢物語りのようじゃ。
主役は、人類に属さぬ少女と少年。
世界の拒絶を受け入れた者と、受け入れなかった者。光に反発した少女と、光に疾走した少年。
それは、真祖の吸血鬼の姫君と気高き魔族の少年との、光の道を歩み行こうとする物語り。
素晴らしい。素晴らしいのう。
「ジジイ、貴様。よもや、このような状況で笑っていられるとはな……。
貴様は、この私を怒らせる事に関しては他の追随を許さん。
今宵からは、その部分の老化を優先させた方が身のためだぞ……」
気が緩んでいた。緩みきっていた。
眼前に、開かれた瞳孔が映る。背筋に悪寒が走り抜けた。まるで、身体の芯から凍てついているかのように萎縮してしまう
完全なる失態。正に想定外。まさか、笑みが漏れ出ていたとは思いもよらなかった。
それにしても、何という威圧、なのじゃろうか。
これは傍目から見れば、正しく老人虐待に等しくある光景。一般の爺さんであるならば、即座に天へと昇華したとしてもおかしくはなかった。
エヴァの殺気漲る刃物のように鋭き眼光は、正に面妖な悪鬼の類じゃ。
未だ現世にて生あるわしを、誉めて貰いたいほどの憤慨じゃった。
じゃがまだ、わしは死にとうない。何としても生を、命を繋ぎ止めなければならないのじゃ。
わしは仏様を拝むように言った。
「い、いや、これは違うんじゃ」
「フフフ……。そうか。
未だに言い訳を宣う根性は健在、か。
なあ、ジジイ。
花の京都を目の前に、私の肩慣らしが必要なようだ。まあ、一種の余興といこうじゃないか」
これはいかん。いかんぞい。
エヴァは爪を伸ばし、臨戦態勢の様相である。わしを今にも喰い殺さんと、獰猛なまでの殺気を撒き散らしていた。
脳内にけたたましい警鐘が鳴り響く。わしはしどろもどろになりながらも、話題の変換を試みた。
「え、エヴァ! わ、忘れてはならんぞい!
このような騒ぎを起こしている暇はないのじゃ!
皆が、皆が危ない! それに、氷咲くんの身にも危険が迫ろうとしておるのじゃからな!」
「貴様ぁ、どの口がそれを……!
……だ、だが、そうだった。
私という者が、このような耄碌ジジイに拐かされて、なんという無駄な時間を浪費していたんだ。
……ああ、ヒサキ。待っていろ。私が今直ぐに行ってやるからな。
ジジイ、いつまでも阿呆のような顔をしてないで早く作業に戻れ! 事は一刻を争うんだぞ!
アイツの身に何かあった場合は……、貴様を殺さなければならなくなる」
ホッと安堵の息を漏らした。
耄碌ジジイなどを筆頭に、少々、気にかかる言葉はあったが、何とか危機を脱出する事には成功したようじゃ。
それにしても、エヴァの最後の台詞。その余りある説得力には身震いせざるを得ない。
即座に作業を再開し、背筋を這い回る悪寒と格闘しながらもわしは口を開いた。
「そ、そもそもじゃな。
あちら側には巧みな練達の士、高位者がおるようじゃが、未だリョウメンスクナノカミも復活してはおらんしのう。
それに、こちらには氷咲くんがおるのじゃ。
彼の聡明な頭脳を鑑みるに、負け戦に参戦するとは全く持って想像しえないからのう。
最悪としても、勝てずとも負けはしない、そんな戦略を思い描いておるはずじゃ。
挙げ句の果てには、念には念をと、お主にも行って貰うのじゃぞ。
心配には及ばんと思うんじゃが……」
暫しの沈黙が続いていく。
何らかの反発の声が来るものと考えていたのじゃが、返答はない。
徐々に重苦しくなっていく雰囲気。それを打破せんと、わしは神妙な面持ちで彼女を見やった。
どうしたのかのう。
彼女は俯き、口許に手を当てて小さく唸っていた。何かを考え込むように眉根を潜める。
そして、呟いた。
「おい、ジジイ。
貴様は当然、レインという名に聞き覚えはあるはずだな?
それが私の思い描く人物の名であるならば……」
「な、なぬ!
一体、それをどこで聞いたのじゃ!?」
反射的に、わしの口からは情けない声が漏れ出ていた。
次の瞬間、じゃった。
次第に、エヴァの口許はへの字に曲がっていく。狼狽しきるわしを尻目に、言った。
その瞳は獲物を見つけた猛禽類のように、爛々と輝いていた。
「ほう。その反応……、やはり知っていた、か。
眉唾ものとも思えてはいたんだが、真実のようだな。
さも自慢気に、あちら側の白髪の小僧が語っているぞ」
な、なんという事、じゃろうか。
まさか、まさかである。あの隠されてきた秘密を知りうる者が、あちら側におったとは。
弾かれるように本山の動向を探った。
そこには、苛烈なまでの情動が渦巻いていた。
白髪の少年の無慈悲な責め苦。氷咲くんの何もかもを飲み込むような、黒き激情がその場を嵐のように荒れ狂う。
「違う。
俺は、小林氷咲だ」
「いや、きみは気付いている。
聡い類い希なその頭脳は、認識しているよ。
だけど、それと同時に、過去を拒絶しているんだ。
違うというのなら、きみはどうして、京都まで来たんだい?
今、この時、きみの異質なまでの冷静さは失われたんだ。
それが、何よりも、事の真相を物語っている」
やはり、そうじゃったのか……。
心を鷲掴みにでもされたような感を覚えた。
脳裏に出立前の記憶が再生されていく。
見た事もないほどに真摯な表情のアルの口から語られた言葉が、脳裏を過ぎった。
「私は、彼を見極めなければならないのです。
彼が記憶を取り戻してなお、その茨の道を歩み行こうとしているのか。それとも、変えられない運命がそのように強制しているのかを。
それが私の役目であり、何よりも、亡きレインとの約束でもありますから」
アルの声は、確かな後悔の念に濡れていた。
失敗じゃった、と内心で自らに愚痴る。京都などに行かせるべきではなかった、と内心で酷く後悔した。
後々になって知ったのじゃから、などという言い訳は許されない。わしが許しはしない。
自らに対する憤りは紅蓮の炎となり、この身を焼いておるように思えた。
エヴァが、さも愉しそうに笑う。
「つまりは、そういう事、か。
クックックッ。常々、不思議ではあったが、良く理解出来たよ。
どうしてヒサキがぼうやに対して、これほどまでに入れ込むのか、とな。
なるほど、模倣していたのか。子が親の背中を見て育つように。
かつて、千の呪文の男の傍らには、常に漆黒の守護者の影が在ったように、な。
その遺児達は、その血に流れる意思は、世代の垣根を越えてなお手を取り合う運命とはな。
それにしても、やはり小林氷咲という男は気高くも面白い男だ。
方や護られ甘やかされて育ち、方や護られず悪の本質を植え付けられたというのに、それを許容して見せるとは」
その声には、邪気がない。
じゃが、次の瞬間じゃった。突如として、エヴァの身体中から目に映るほどの殺気が迸ったのじゃ。
「……ジジイ、今すぐだ。今すぐに送れ。
小僧とヒサキの過去に何があったかなど、私にはどうでも良い。
だが、私からアイツを奪おうとするという事が、どういう意味を持つのか、あのデカブツごと、うなされるほどに思い知らせてやろうではないか」
エヴァの立ち姿が光りに包まれていく。
わしは、ただのジジイに過ぎないという事を思い知らされた。
あの茜差す放課後、氷咲くんを暖かく照らす太陽になるのじゃと決意していたのにも関わらず。
自責の念が刃となり、わしに襲いかかっていく。
じゃが、これだけは言いたい。これだけは、言わせて貰えないじゃろうか。
「エヴァ、申し訳ない。
氷咲くんを頼んだぞい」
消え行く最中、エヴァは何も言わなかった。
だが、その口許には、妖艶なまでの笑みが張り付いていた。