その暗闇を沈み行くものは——裏その肆
—エヴァンジェリンside—
景色はめまぐるしくも移り変わる。水面下で脈打つ鼓動は、如実に猛りを増していた。
率直に、だ。単刀直入に言おうではないか。
そんな事柄は、私に通用しない。関係もない。正直に、どうでも良いのだ、と。
ヒサキと白髪の小僧との間には明確なまでに、憎悪や復讐、血で血を洗うようなまでの因縁が、血縁のように繋がっているのだろう。
だが、他人事とは思えない事も確かだ。何よりも、ヒサキの事であるのだから。まあ、心苦しく思わなくもない。
親の仇が目の前に、いる。半歩動けば殺せる位置にいるのだ。
ヒサキの激情は、心境は如何ほどのものか、汲んでやりたいし認めてやりたくも思う。
だが再度、言おうではないか。
私には関係ないのだ、と。
仮に、仮の話しだ。
ヒサキから頼まれたというのならば、私が二つ返事で快諾する事は想像に難くない。
なぜならばアイツが関係しているのだ。
正直、色々と思い悩んでしまうのも事実。問題はないとは思うが、後の事を考えると肩代わりしてやりたくもあった。
だが、そんな事は起こり得ない。天地がひっくり返ったとしても、そうはならない。
なぜならば、至極簡単な事だ。
あの獅子の如き気質を持つ、愛らしくて仕方がない愚か者を、私はこの世の誰よりも知っているのだから。
まさか、まさかだ。
小林氷咲という男が、好いている女に復讐を手伝えなどと宣う訳がない。
危惧せんとするなど、正に失笑ものだ。冒涜に値する。
そんな不埒な戯れ言を吐く者がいるのならば、私は怒りを露わにしなければならない。
アイツは女々しさとは無縁の、真逆の位置に立ち続ける男。言葉など必要ではない。その鋭い双眸で、威風然とした背中で、気高き生き様を語る男なのだから。
それならば、私のすべき仕事は明快。一つだけだろう。
あの愛すべき愚者が、私に取って誰にも代わる事など出来はしない戯け者が、苦悩の末に選んだ答えを許容してやる事に他ならない。
その未来を、見守ってやる以外にはあり得ないのだから。
だが、少々の問題が発生していた。
寛大の二文字を背に持つ私にも、どうしても、許容など出来ない発言があったのだ。
それは先程、一向に分をわきまえようとしない小僧の口から放たれている。
気狂いじみた言葉は、鬼神復活の際のいざこざに乗じて私の耳に届いていた。
「それとも、復讐も、幻想の世界さえも、何もかもを捨てて……僕と共に歩む事を選択したのか?」
面白い。面白いではないか。
興味を抱いては止む事のない科白。独りでに、口許には愉悦の笑みが浮かんでいた。
一重に、大笑いを隠るものではない。
まるで、耳元をブンブンと喧しい蠅のようだ。本当に面白い事をわめくものだな、この小僧は。
それはあれ、か。こういう事、だろうか。
ヒサキはこの私を捨てる、と。
そして、自らの方についていくのだ、と。
そう貴様は、問うているのだな……。
ああ……偽りなく思う。……寒々しいまでに面白いじゃないか。
刹那的に、笑う。
その後、私は行動をした。
小僧の背後、月光につくられる陰影から、右腕だけを這い出させる。小僧に終焉を告げる掌が、無防備な上着を掴んだ。
私の笑みに、小僧の目は驚愕に見開かれた。
数秒間の、視線の交わり。一方的なまでの意思統一。鬼神のけたたましい咆哮が、酷く心地良かった。
体内を流れ行く血流が激流となり、爆発的に煮えたぎっていく。
呆気のない事だ。すまないな、と笑みで示す。
たった、これしきの事で揺らいでしまうのだ。
貴様の絶対的だったはずの優位は。歪な勝利は。
戦況は刻々と変わり行く生物。貴様ならば、良く理解していたはずなのだがな。
ヒサキを前に気が緩んだ、のか。
だがどちらでも良い。勝敗は決したのだ。
私がここに現れた時点で最早、貴様の敗北と、ヒサキの勝利は揺るがないものとなったのだ。
そして、永遠に、貴様の願いが叶う事はない。
なぜならば、小林氷咲という男は私のもの。
その激情に揺らめく瞳も、夜風に惑う毛髪一本一本も、その信念でさえも全て、私にしか掴めぬ絶対のものなのだから。
そして今、無情にも、水泡のように消え行く。掴めはしなかった貴様の願いは。
「小僧、戯れが過ぎるぞ。
私のものを盗もうとするその根性は、賞賛に値する。
だが、この愚か者が欲しいというのならば、この私の息の根を止めてからにしろ」
次の瞬間、小僧の背中には拳が生えていた。腹部を体内ごと貫き、そのヌルリとした感触を捉える。
膨大な量のアドレナリンが、放出させられていた。
未だ驚愕に目を見開く小僧の耳元に、そっと囁く。その声は、致死に至る悪辣な響き。
「小僧。貴様はもう、ヒサキには、必要ない」
小僧の身体は、吹き飛んだ。鞠のように水面を跳ねる。
そのまま遠めに見える森林へと速度を上げて行く。木々をなぎ倒し、粉塵を撒き散らしながら消えて行った。
満足げに頷き、嘲笑いのままに視線を薄い闇へと向ける。
最早、生きてさえいないかも知れないがな、と。
その時、背後から歓声が上がった。やれやれ、と腕を組み首の骨を鳴らす。
「エヴァンジェリンさん」
「エヴァンジェリンさん!」
「エヴァちゃん!」
全く持って、外野がうるさい。空気の読めない、困った奴らだ。
これからは、私とヒサキとの一時。感動の再開、だというのにも関わらず。
私は髪型が崩れていないか確認してから、ゆっくりと振り返った。
「ヒサキ、待たせたようだな」
視界には、月明かりに仄かに縁取られる男。夜風に惑う前髪がその両目を晒すのを捉える。
そこには今の、私の全てが在った。
その細身の体躯も。その冷静と情熱を合わせ持つ瞳も。胸の奥に宿す不屈の気質も。
愚かなほどの優しさも、隠し通せぬ弱さも、私を魅了して止まない暖かい温もりも。
私が護りたいと切に願えた、比類なき個が、そこには在った。
知らず知らずの内に、真実の笑みが浮かべられていた。
嬉しい。なんて嬉しくあるのだ。
ただこれだけの事で、ただ顔を合わせているだけなのにも関わらず、私を高揚させていく。
私の咎を、私の業さえもを、浄化させていくような感覚を覚えた。
心の世界は暖かく包まれ、充足感に満ちていた。
だがふと、もどかしさを覚えた。
私が言いたかったのは、待たせたようだな、などという陳腐な言葉ではない。そのような台詞ではなかったのだから。
心の底から言ってやりたい事は別にあった。
頑張ったな、と。復讐さえもを断ち切るとは、さすがのお前だな、と誉めてやりたかったのだ。
愛らしいという感覚は、身体中を這う。抱きしめてやりたいという衝動は、ピリピリと皮膚をついばんだ。
対峙して、良く理解出来る。相対して、自らの苛烈なまでの想いを再認識した。
やはり私は、コイツが欲しいのだ、と。
愛しくて、たまらないのだ、と。
夜も眠れなかった数日間。対比が、それを倍増させて募らせる。
そして、何よりも、口許に形作られる感情がそれを物語っていた。
ヒサキは黙して何も言わなかった。
未だに、無表情のまま。戦場でのコイツは、警戒を緩める事がないのだろうか。
その姿勢は十代とは思えず、苦笑する。
おいおい、愛らし過ぎるだろ、といつの間にか内心で突っ込んでいた。
私も黙して何も言わなかった。
遠き京都の地。鬼神の咆哮をBGMに、見つめ会う男女。互いの内に秘める情動は、肥大し拡大していく。
それだけで良かったのだ。
たったそれだけの些細な機微で、私達はわかり合えるのだから。
半人前の小娘達には、感じようもないだろう。
しかし、私にはヒサキが理解出来る。
コイツが何を想い、何を為そうとしているのか。その内情の色も、類い希なる頭脳が導き出す結論も。
遥か永き六百年に身を置いて培われた、経験則。それはそれは、凍てつくような険しい道だった。
だが、その駆け抜けた生は、今、報われる時を迎える。
その全ては、小林氷咲という男の本質を支え、理解するために存在したのだから。
ふと、ヒサキの瞳が揺らいでいるのに気づいた。
それだけで私は瞬時に察知出来る。
なあ、ヒサキ。私にはお前がわかるぞ。
「さすがの小林氷咲、といったところか。
この私が京都に降り立った時点で、お前の描いた策は成った。
まさか、一度も戦わずして、一度の変身もせずして、相手の思考を誘導し、時間を稼いで見せる、とはな」
本心から、そうは思う。
だが、事の本質はそこではない。
ヒサキの瞳の揺らぎがそうさせたのだ。
視線に含意を込める。
そうだな、ヒサキ。
お前の過去はお前だけのものだ。今は、こうして置けば良い。
だがいつの日か、お前の口から語ってくれるのを待っているよ。
桜咲刹那が驚いたように言う。
「ま、まさか、小林さんは……この時を待っていたんですか」
私は茶番に付き合う。
「ああ、この私としても恐れ入ったよ。
全ては、コイツの掌の上にあったに過ぎない。
いつ把握したのかは知らんが、いや、じじいの行動も予測済みだったという訳か。
まさか、麻帆良にいるはずの私、という不確定なものまで策に組み込んでいたとはな。
コイツは愚者でありながら、シビアなリアリストでもある、という事だ」
私が格好良く決めていると、いつも邪魔が入るのは気のせいだろうか。
神楽坂明日菜はやはり、バカのままのようだ。こんな時にまで騒いでいるとは、先が思いやられよう。
「え?
ごめん。どういう事?」
「カァー! カァー!
情けねぇ! 姐さん、情けねぇ!
小林の旦那はなぁ……」
私は苦笑を隠せなかった。
あのヒサキが、一瞬だけたが、呆気に取られたのだ。
私が隠し持っている写真と同様に、それはそれは間抜けな顔だった。
お前は私を舐めているのか、と小一時間問い詰めたくなる。
だが、そのしてやられた、という表情が酷く好ましかった。
なぜならばそれは、百戦錬磨の私にしか形作れない、お前の特別な顔なのだから。
ヒサキは額の汗を右腕で拭うと、薄い笑みを見せた。
正に阿吽の呼吸。私達は通じ合っているのだ。
ああ、その笑みを見れただけで、ここに来たかいがあったというものだ。
その笑みには、ある感情が滲み出ていた。それは、多大な感謝の念だった。
「エヴァンジェリンさん、助かったよ」
そう、確かに聞こえた。
当然だ。私をそこらの小娘と一緒にするんじゃない。
苦笑を隠せそうにない。
だが、その楽しき空間は、またしても邪魔者により介入された。
桜咲刹那の意を決したかのような声が、辺りに響き渡る。
「小林さん!
いえ! ひ、氷咲さん!」
「ぬ」
独りでに、口から声が漏れていた。
それはヒサキの視線が、私から外されたのと同時だった。
ヒサキの黒色の瞳に、桜咲刹那の姿が映り込む。
どこか無視されているような気がして、そして、桜咲刹那の真面目な表情が酷く癪に障った。