その暗闇を沈み行くものは——裏その伍
—桜咲刹那side—
鬼神の唸り声は猛々しく、夜空にぼんやりと張り付くおぼろ月までもを振動させているような気がした。
新緑の木々は黄金色に染められて、水面は勢いよく波打つ。肌寒い卯月の風は、私を苛烈に責め立てていた。
気迷う心の内。視界に映る光景。凄惨なまでの悪寒が、身体中を這いずり回っていく。
頼れる援軍、窮地を救うエヴァンジェリンさんの参戦は、確かに心強くはあった。
だが、私はただ呑まれていただけだ。
小林さんの思惑に呼応する事も出来ず、ただただ、成り行きに身を任せていた。
致し方ない、とは言えない。小林さんの先読みの慧眼が常軌を逸していただけ、とは言えない。
なぜならば、私と彼女との違いは決定的。微かな誤差ではなく、大人と子供ほどに明確だったのだから。
そして、ある含意の言葉。無情な一声。無慈悲なまでの誇示は、突如として、ある寒々しき感情を発生させていた。
耐え難い冷気に、凍ってしまいそうになる。
まるで、吹雪吹きすさぶ雪原を歩かされているかのように、身も心もガチガチと震わせていた。
自然過ぎる微笑み。眼前に映り込む二人に、言葉はいらない。お互いの眼差しがそれを補う。
戦地に置いてなお、平常心を乱さない様は、絶対の強者にしか振る舞う事の出来ない境地だった。
二人、だけの空間。自らの存在など認識さえされず、忘れられてしまったかのような感覚を覚える。
羨望。羨み。妬み。私が呆けて見つめるそこには、最上級の絆が存在していた。
私達を繋ぐ、一方的な畏怖や尊敬。そういった依存の形ではない。
並び立ちたい。通じあいたい。支えあいたい。
私が切に願い目指し、欲していたもの。共依存という名の至高の形状だった。
小林さんと経た期間に大きな違いはないのに。触れ合った時間にも差はないのにも関わらず。
目の前には、まるで赤い糸で結ばれているかのように強固な線となり存在していた。
エヴァンジェリンさんの仕草を見つめて、ふと疑問に思う。
短い付き合いだ。私は彼女を深くは知らない。
だが、彼女はこんなにも、愉しげに笑っていただろうか、と。
彼女の瞳はこんなにも、慈愛に満ちていただろうか、と。
そして、彼女はこんなにも、綺麗だっただろうか、と。
焦燥感に駆られる。なんなのだろうか、この感覚は。
悪夢にうなされているかのようで、脂汗が額を伝う。
恐怖しているのだろうか。怯えて、でもいるのだろうか。
結論は出ない。何も考えられない。独りでに、脳が思考を拒否してしまう。
いや、違う。違うのだ。
私は感づいている。正体に気づいている。だが、認めたくないだけなのだ。
結論の正体は、凍てつくほどの厳しき刃。致死に至る凍えを産む。認識してしまったとしたら、私は私でいられなくなる。
迷子の幼子のように迫り来る恐怖に怯えて、放心し、硬直してしまいそうになるから。
小林さんの穏やかな瞳の中に今、私の姿は映り込んではいない。横顔しか見えない。
なぜならば、私とは違う女性を見ているのだから。
平常心ではいられなかった。その事実は私の心の世界を、不安定にして崩壊させていく。
後退りしそうになった。
ただ、いや、だったのだ。怖、かったのだ。
許容など出来る訳がない。許されて良い事ではない。それは、世界から逸脱している。
なぜならば、彼の瞳に映り込んで良いのは、映り込むべきなのは、私だけなのだから。
私でなければ、ならない。そうでなければ、桜咲刹那という個体が、この世界に存在する意味を失ってしまうのだから。
そうだ。素直に思えた。
私が生まれた意味。存在意義は、彼の咎を共有し、支えるために在るのだ。
そのためだけに生まれた。そのように、運命づけられていたのだから。
小林さんの横顔を、見つめる。
小林さん。私を……、私だけを見て下さい。そうじゃなければ、私は……。
脳裏に規則的に連続する言葉が、煌びやかに明滅を繰り返していく。
感慨の渦に身を投げる。委ねる。それだけの事で、肌を刺すような寒々しさが、徐々に和らいでいく気がした。
やはり、正解なのだ、と深く安堵する。彼に寄り添おうと思う事は、毛布に包まれているように暖かな熱を産んだ。
頬がゆっくりと高潮していく。私は躊躇わずに、口火を切った。
願った。その慈愛に満ち満ちた瞳が、私だけを映し出してくれるように、と。
「小林さん!
いえ! ひ、氷咲さん!」
「ぬ」
小林さんは、許してくれるだろうか。
私はあなたの気を引きたくて、氷咲という神聖な響きを用いた。
羨ましい、という感情からでもある。彼の名前を呼び掛けたかったからでもある。
だが、少しの驚きで良かったのだ。
怖い。途方もなく怖いが、怒られたとしても構わなかった。
それだけでも、数秒の間だけは、彼を独占出来る。このまま忘れ去られてしまう恐怖とは、比較になどならなかったのだから。
小林さんの黒色の瞳が、私の姿を映し込んだ。
それだけの事で、初めからなかったかのように、熾烈なまでの凍えはその姿を消していた。
目が熱い。喉が震えてしまう。一瞬の後に、体内を流れる血液がゴボゴボと沸騰していった。
彼の表情に満ちるのは、驚きだった。
冷たい風が彼の前髪を揺らし、見開かれた瞳を露わにする。
それは、怒りからなのだろうか。純粋に、驚きからなのだろうか。
怖い。沈黙が怖かった。考えたくもなかった。
だが、だからこそ、私は口を開くのだ。
「……氷咲さん。
あなたは、ゆっくりで良いと言ってくれました。共に前に進もうと言ってくれました。
ありがとうございます。
ですが、今、なんです。過去の私と決別するのは。
今じゃなければだめなんです」
黙して立つ小林さんへと、偽りのない本心がこぼれ落ちた。
そうだ。今だ。今、なのだ。
大停電の夜のように、後悔したくない。立ち止まりたくはない。あんな劣悪な感情を抱えたくもなかった。
だからこそ、今なのだ。彼を、彼の心を独占するには、今しかないのだから。
これから私は、隠し通して来た呪縛を、封印を解き放つ。
それは、あなただからこそ、なんです。
あなただからこそ、本当の私の姿を見て欲しいんです。
禁忌の翼を。生来の咎を。桜咲刹那の根源を。
包み隠す事なく、真実をありのままに、あなたへと伝えたい。
小林氷咲という何者にも代えられない、掛け替えのない存在へ、と。
その言葉の意味を理解したのだろう。
小林さんの目に力強さが戻っていく。真摯な表情で、こちらを見据えていた。
その時ふと、不思議に思えた。
私はどうして、翼を嫌っていたのだろうか、と。
私はどうして、人外である事に思い悩み、何もかもから距離を取ってきたのだろうか、と。
恐怖は微塵もない。影も形もなかった。
そう、か。答えは簡単に導き出された。
原宿の夜に、嬉しくて泣きはらした夜に、小林さんがそう教えてくれたから、だ。
優しくも厳しく、背中を押してくれたからだ。
翼は禁忌ではない。醜くなどない、と。
それは美しく、誇るべきものなのだ、と。
迷う必要などなかった。苦悩する必要もなかった。
他人が、彼以外の何もかもが、罵ろうがどう思おうと、知った事ではなかったのだ。
小林さんは私の全て。
彼が、私を見てくれるだけで良い。信じてくれるだけで何もいらない。微笑んでくれるだけで、私は私の意味を持つのだから。
そして、簡単な事だった。
私は彼を信じて、彼に寄り添い、彼の心へと手を伸ばそうとすれば良かっただけなのだから。
「氷咲さん……、あなたのお陰で、私は私の産まれた意味を知りました。
だから、氷咲さんになら、あなた達になら……。
私はもう、迷いません」
そのまま、目を閉じた。私の中の異物を探る。
確かな歪な感覚を覚えた。
だがそれは、私の誇りの象徴。桜咲刹那の、一部であり全部でもあった。
力をそっと込める。背中に生えている翼を、一気に解放した。
一瞬の後、私達の間を、無数の白い羽根が舞い散る。雪景色のように中空を踊る様に、どこか、晴れやかな感覚を覚えていた。
ふと、気配を感じ取る。それは意味深なまでの眼差しをした、アスナさんだった。
「ふぅーん」
「あの、アスナさん? どうしたんで……」
「きゃう!」
な、なんだと言うのだろうか。
突然、翼ごと背中を勢い良く叩かれて、放心してしまう。
その上、翼の感触を確かたいのだろうか。
掌に押し当て、顔をうずめた後、抱きしめられた。
理解不能の様相ではあったが、一頻りの吟味を終えたのだろう。
アスナさんは顔を上げる。眉根を細めて、微かな怒りを帯びた微笑みで言った。
「アンタ、なに言ってんのよ。
こんなきれいな翼を持って、悩む必要なんてないじゃない」
理解が出来ない。
その言葉は、余りにも想定外に過ぎた。
時が止まったままの私を見て、アスナさんは少しだけ照れくさそうに笑う。
「アンタね、何年も一緒に居ながら、私達のなにを見てきたのよ。
私も木乃香もネギも、小林先輩だって……、そんな翼があるくらいで、誰かを嫌いになるような心の狭い人間に見える?
本当にバカなんだから……」
「アスナ、さん……」
その言葉の意味を理解した時、私の口許は独りでに動いていた。
そう、か。やはり、小林さんは正しかった。正しかったのだ。
自らも同様に、皆も、桜咲さんを信じていると言ってくれていた。
それは、揺るぎのない真実だった。
小林さんだけではなく、皆も、私を認めてくれていたのだ。
全ては小林さんの言う通りになった。
この翼は醜くなどなかったし、禁忌の象徴などではなかったのだから。
それは余りにも嬉しかった。嬉し過ぎた。
小林さんによって、皆によって、最早既に、私の存在はこの世界に認められていたのだ。
このような事があっても良いのだろうか。募り行く感謝を、隠す事など出来なかった。
感動の渦に飲み込まれている私の背中を、アスナさんが強く押した。
「ほら、小林先輩にも聞いてみなさいよ」
小林さんの瞳は濡れて、揺れていた。
刹那的に現れる恐怖を振り切って、私は口を開いた。
「あの……氷咲さん。どうで」
「きれいだ」
間髪を入れずに返答された言葉。その力強さに、籠もる感情に情けない声が漏れた。
「え?」
小林さんは苦笑いを浮かべた。
やれやれ、といった笑顔。それは矢となり、私の心を容易く射抜いていく。
その苦笑いに、鼓動が高鳴った。
ああ、私は、彼に恋焦がれている。包み込まれていくようなまでの、最も好きな仕草だった。
「その翼は、綺麗だ。
きみが何者でも関係ない。
俺は、俺達はきみを信用しているって、言っただろう?
それは今でも、これからも変わる事はない。
なぜならば、きみはこの世界でただ一人しかいない、桜咲刹那なんだから」
一拍の後、私の口からはありのままの声が放たれていた。
自然な笑み。心の底からの笑顔。それは全て、あなたの存在が作用しなければ形作られはしない。
「はい!」
「フン。
おい、桜咲刹那。近衛木乃香は良いのか?」
「あ」
そうだ。エヴァンジェリンさんの言う通りだ。
ここは、戦場。小林さんには小林さんの、私には私の為すべき事がある。
私はお嬢様を救い出さなければ、ならない。
そして、このちゃんとの決着もつけて見せる。
もう私は、何も怖くはない。傍で見守ってくれる人がいるのだから。
大きく、翼を広げた。
飛び立とうとする最中、私は言う。声は穏やかで、震えてはいなかった。
「氷咲さん。いってきます」
「ああ。いっておいで」
氷咲さんが薄く笑う。
京都に来て良かった。あなたと出会えて良かった。
今日、この日を、私は一生忘れない。
私に、桜咲刹那に、帰る場所が見つかったこの卯月の夜を。