第112話−世界の片隅で2
荒い息をつきながら、一体の骸骨が走っていた。
妙な表現だが、そうとしか言いようがない。
骸骨はその名を『鼻唄』のブルックという。死んでも1度だけ蘇れるヨミヨミの実の能力者であり、しかし、既に1度死んだ当人としてはただのカナヅチな骸骨だった。
スリラーバーク。
霧の中にたゆたう島と見紛う巨大な船である。
これでも海賊船だ。
海賊団の船長の名はゲッコー・モリア。王下七武海の一角であるカゲカゲの実の能力者であり、かつては新世界で四皇の1人カイドウとやり合った実力者でもある。
……もっとも当人からすれば、やり合ったとはいえ、結局敗北。有能で信頼出来た部下……海賊として船出してから苦楽を共にしてきた気のおけない仲間達を全て失った苦い思い出でしかない。
それは現在のモリアの海賊団の構成を見ても分かる。
生きている人間は僅かに3名。
天才外科医ドクトル・ホグバック。
『墓場』のアブサロム。
『ゴーストプリンセス』ペローナ。
……他は全てが死体だ。
正確にはホグバックによって改造され、モリアの能力によって他の人間から奪った影を入れ動かされる操り人形というべきか。確かに、生きている部下がいなければ、もう一度失う不安からは解消される。……それだけモリアにとってもかつての部下達を失った事はショックだったとも言える。
さて、ブルックもまた、この島で影を奪われた。
以後、霧の海から逃れられないでいたのだが、それは諦めた事とイコールではない。
以前から幾度となく、自らの影を取り戻しに潜入を繰り返し、ゾンビを倒す方法は見つけたが……。
「飛燕(スワロー)・ボンナバン!」
「!」
咄嗟に横に飛びのいたブルックの脇に黒刀が突き刺さった。
そのままブルックは服が汚れるのも構わず転がって距離を取る。
上空よりブルックを突き刺さんと舞い降りた当人は外した事に舌打ちしつつ、立ち上がる。
その名をサムライ・リューマというワノ国の剣豪である。無論、もう死んでしまっている訳だが。
「今日はしつこいですねえ」
ブルックが言うのはもっともで、既にスリラーバークの外縁部近い。
普段はもっとリューマは内側におり、逃げ出すブルックを嘲笑い、見逃してきた。それがしつこく追ってきているのは確かに珍しいのだが……。
「……貴様がそれを言うか!今日こそはアフロを刈るなぞと言わず、本体である貴様の息の根を止めてやる……!」
リューマの姿を見れば、大体分かるだろう。
着流しは斑模様。
頭からは何か分からないねっとりした黒い物がへばりつき。
まあ、その他アレコレ、とにかく見た目酷い有様になっていた。
これ全て、ここ数日のブルックの戦果だったりする。
「ヨホホホホホ。生憎そういう訳には行きません」
言うなり、ブルックは更に逃走を開始する
リューマの身体能力は自分より上だ。
中身が同じで、使う技も同じならば、後は肉体の差が物を言う。
元々伝説に名を残す程の大剣豪の肉体に、ドクトル・ホグバックが強化改造を施しているのだ。真っ向やりあって勝てる相手ではないのは、ブルック自身が自分の体で散々に体験している。
ただ、1つだけ現状、ブルックが勝っているものがある。
「おのれ、まだ逃げるか……!」
今のブルックは骨だけだ。
すなわち軽い。
リューマは身体強化が施されたとはいえ、その分重い筋肉が増量され、耐えられるよう骨格も強化され……力が増し、技の威力も増した分、逃げ足ではブルックが勝る。
とはいえ、ブルックとて必死だ。
「逃がすか!夜明歌(オーバード)・クー・ドロア!」
どのような技かは自分の技だから分かっている。
だが……。
「くうっ!」
改造されたリューマの肉体から放たれる技は本来鋭い突きを放つだけの技を、衝撃波を飛ばす技へと変えた。
幾等向こうが足を止めているとはいえ、こちらも思うようには距離を広げられない。それでも……。
(あと……もう少しなんです!)
信じるものがあるから、ブルックは駆ける。
例えみっともなかろうが、例え無様だろうが構わない。
…………
そうして、遂にスリラーバークの最外縁部まで到達した。
ここから先は海だ。
途中からは海を走って、到達したブルック。
最早意地で、そこらにいた兵士ゾンビやらまで動員して追ってきたリューマ。
ただし、あくまで『あいつを殺すのは俺だ!』とばかりに他に手出しはさせなかったのだが……。
「もう、逃げ場はないぞ」
手出しはさせていないとはいえ、リューマの背後にも、ブルックの背後にも兵士ゾンビがズラリと並んでいる。
確かにこれではもう逃げ場はないだろう。
だが、ブルックには焦る様子はない。その態度にリューマは少し奇異に感じた。
「ヨホホホホホホ。大丈夫です」
「……何がだ」
「ここが目的地ですので」
何?そうリューマは問いかけたかったのだろう。
だが、彼がそう問う前に、大量の海水が襲ってきた。
飲み込まれた海水に、兵士ゾンビがまとめて押し流される。リューマ自身は咄嗟に刀を突き立てると同時に壁を背にして耐えようとしたのだが……さて、モリアのゾンビは悪魔の実の能力によって動かされる以上、海に、更には塩に弱い。
塩分をたっぷり含んだ海水を浴びたリューマの体からは抵抗も出来ずに、影が抜けた。
「ヨホホホホ……ナイス・コントロールです、ラブーン」
ぶおおおおおおお———!
びしり、と親指を立てて合図するブルックの視界の先に巨大な体があった。
いわずとしれたアイランド・クジラのラブーンだ。
ラブーンは鯨だ。そして、鯨には潮吹きという特徴がある。
……もう分かっただろう。ラブーンがわざと水面下から噴出す事によって、噴気で海水を弾き飛ばしたのだ。ちなみに、噴気自体は呼吸によるものなので、呼気による僅かな水分ぐらいしか含んでいない。
問題はラブーンが巨大だという事だ。
当人にとっては僅かな水を吹き飛ばしたつもりでしかなくとも、遥かに小さいサイズである人間からすれば大量の海水になる。幾度か練習を重ねたとはいえ、上手くいくかは分からなかった。いわば賭けだ。
まあ、最悪、駄目だったらラブーンに乗せてもらって脱出する予定ではあったのだが。
だが、結果から言えば、最高の結果となったようだった。
「さて、それでは余計な連中が来る前にさっさと逃げ出すと致しましょうか」
言いつつ、抜け殻となったリューマの肉体と黒刀とを担ぎ上げる。
「……剣士としては正々堂々と戦って勝ちたかったですよ」
そう呟くと、海へと飛び降りる。
ラブーンの背に着地すると、ラブーンが泳ぎだし、巨大故に動きの鈍いスリラー・バークは急速に離れていった。
その背で水葬の準備をする。
やがて、霧の海を抜け陽光煌く海へと出る。
思わず、ブルックはその光景に目を奪われた。……ルンバー海賊団の仲間を失って、どれだけの月日の間、あの霧の海を1人彷徨っただろうか……。影を奪われてからは、太陽は厳禁だった。
もう、こんな光景を見る事は出来ないのではないか……そう思った事も一度や二度ではない。
それが今、目の前に広がっている。……気付けば、涙が流れ落ちていた。
ラブーンと再会した時もそうだったが、どうも涙腺が緩みやすくなっているような気がする。
我に返ったブルックはリューマの肉体を水葬に帰す。
……もう二度と眠りが妨げられる事がないよう願って。
「さて、行きましょうか、ラブーン。……あ、もし、何かあってはぐれた場合は落ち合う先は、クロッカスさんのいる双子岬ですからね?」
ぶおおおおおおおお———!
持ち出したのは残っていた財宝と身の回りの品。そして、ルンバー海賊団の旗。
船を買い、仲間を再び募って……いざ冒険の旅の再開へ、ブルックは航海を開始した。
かけがえのない仲間と共に。