第162話−虎子を得れども
(……結局、何も手出ししてこなかったな)
顔はにこやかに。
けれど、腹の内ではいぶかしむ声と疑念で顔を歪めながら、アスラはコブラ王と握手した。
此度の会談で、アスラはクロコダイルが何らかの手を打ってくると判断していた。
王が引いて会談を為し、その上で暗殺されたらどうなるか?
……世界政府への疑念は一気に膨れ上がるだろう。海軍への怒りも絶大なものとなっていたはずだ。真実がどうかは関係がない。一気にアラバスタ王国において燎原の如く燃え広がっていた筈だ。
無論、それは王国側も理解していた。
だが、今回の会談ではクロコダイルは何も仕掛けてこなかったのだ。
(……原作知識が役に立たない。それだけでこうも先が見えないとは、な)
原作知識とはすなわち確定した未来の話だ。
だが、原作から乖離した今、この世界は完全な『ONE PIECE』のパラレルワールドと化している。その世界に措いては当然流れる歴史、未来の流れは全く異なったものになる。
見えない道を歩いてゆく。
その不安さに、アスラは内心で深い溜息をついた。
クロコダイルが動かなかった事に疑念を持った者は他にもいた。それもクロコダイルの至近に、だ。
「意外だったわ」
「何がだ?」
応接セットのソファにどっかりとふんぞり返るクロコダイルの前で、ロビンが珈琲を淹れていた。
自身のカップにも注ぎ、改めてクロコダイルに向き直る。
「今回の訪問で王と2人きりの所に襲撃を掛けるかと思っていたの」
不可能な話ではない。
王宮にもクロコダイルの手駒はいる。深く潜り込んでいる者や買収した者、弱みを握った者など様々だが、彼らを総動員すれば海軍本部中将との会談の最中に暗殺という手も可能だったはずだ。
「そいつは下策だ」
やるならば、暗殺でなくてはならない。
それも王宮の人間の誰かがやったのだと分からないような。
理想はそれこそ、2人きりの面談の最中に国王が殺される事だが……その為には必須の事が1つある。……下手人が捕まらない事だ。
「犯人が捕まったら意味がない。何しろ、世界政府とはまるで関係のない人間が捕まるんだからな」
情報操作で操るにせよ、そこには真実がなければならない。
真実のない情報を人は敏感に感じ取る。
そして、一度疑われた情報源の信頼はなかなか取り戻せない。
「毒を使うか?無理だな、面と向かい合ってる状況、しかも片方は海軍本部中将って状況で殺す気なら何故、直接手を下さない?」
「…………」
沈黙するロビンの前で、クロコダイルは謳うように呟く。
「狙撃?王宮内部奥深くでどうやって?外に出てから?いいやあ、それじゃあ世界政府が殺したって印象が薄くなりすぎる」
かといって、暗殺者を送り込んだ所でアスラがいる状況下で成功するかどうか、万が一いや兆が一成功した所で犯人が逃げられる程、アスラ中将が甘い人間だと楽観出来る程、クロコダイルは相手を甘く見てはいない。
理想で言えば、殺されている国王、凶器は目の前の世界政府の役人の手中に、役人は狼狽し、自分ではない、別の奴が飛び込んで来てと主張し、これはそいつが落とした物を拾っただけだと主張……そんな光景だ。
だが、アスラ中将相手ではどうしてもその光景が見えてこない。
10人近くの腕利きを使い捨てにした所で、無傷のコブラ王とアスラ中将両者に、生きたまま捕えられた暗殺者達という、そんな光景と似たり寄ったりの結果しか計画を何度頭でシミュレートしてみても思い浮かばないのだ。
やる前から成功を確信出来ないような計画に賭けねばならない程、こちらが追い詰められている訳でもない。
「そう、貴方がそう判断しているのならいいわ」
そう言うと、ロビンは焦った様子もなく、珈琲を口に運んだ。
その様子を視界に納めながら、クロコダイルは考える。
そう、焦る事はない。
既に、今回の事件で種は蒔かれた。
1度燻った炎は容易に消えはしない。今回の案件を上手く納めた所で、それは表面上だけだ。
(今の内に精々安心していろ)
クロコダイル自身も珈琲の香を楽しみながら、視線を卓上の新聞に目をやる。
そこには、今回の事件に関する決着が書かれていた。
『裁判の開催決定!裁判は世界政府派遣の司法官が行なうも、裁判の模様はアラバスタ王国国民に完全公開の中行なわれる模様』