第163話−実験終了
公開裁判自体は粛々と進んだ。
野次を飛ばす者は存在しなかった。
もちろん、事前に野次を飛ばす者などの実力をもっての排除や、不満がある場合の抗議申し立ての場所などがきちんと設けられていたからでもあるし、海軍とアラバスタ王国正規軍双方が裁判の行なわれる場所を厳重に警備していたからでもある。
法廷の左右にそれぞれ両軍が武器を構えて整然と立っている中で、騒ぐ馬鹿もいなかった。
「……意外だったな。抗議は殆どなしか」
アスラからすれば、訳の分からない抗議が殺到するものだと思っていた。
この辺りはもう、薄ぼんやりとしか思い出せない前の世界の記憶が作用しているのかもしれない。抗議の為の抗議、難癖をつけての強請りなどが脳裏にあったのだろう。
だが、この世界はそこまではまだいってなかったらしい。
数少ない文章にしても、きちんと納得がいかない部分に関する指摘が為されており、これらが教養の高い人物らから法というものを理解した上で為された指摘だという事を示していた。
(騒ぐだけの連中では、気圧されてまともな文章など書けなかったという事か)
抗議文はただ文句を書き連ねればいいというものではない。
書き上げた上で、ちゃんと専門の法務官がそれを確認して、疑問点やおかしな点についてその場で答えられるものであれば受け答えし、或いは指摘する。
時間はかかっても、やれ。
それが今回の命令であり、彼らはそれを忠実に行った結果、やたらと騒ぐだけの連中の書いた文章は簡単に論破され、しどろもどろになってすごすごと帰っていく様をアスラも1度ならず目撃している。
今回の法廷においては軍人側の主張を聞いた上で、最終的には純粋な殺人事件としての面と賠償面から裁判を行なう事になっている。
最終的な落とし所としては、酒に酔った役人が酒場の女性に絡んでいたのを、軍人が間に割って入り突き飛ばした結果、酒に酔っていた相手が踏ん張れず頭部を打って死亡した、という所に落とし込む事になっている。
所謂、過失致死、という奴だ。
これで最終的には純粋な事故の結果の殺人事件として、ある程度の懲役刑(アラバスタ王国内の監獄に収監)と遺族への賠償金という形で決着する事で合意している。世界政府としても、これ以上1人の役人の為に延々と騒動に巻き込まれたくはなかったからだ。
外交官?
そちらは今回の事件とは全く関わりのない話だ。
むしろ、狙撃の可能性が高いとして、アラバスタ王国でも捜査が続いている。国内に正体不明の狙撃手がいるなんて、ぞっとした話ではないからだ。
「よう」
そんな事をつらつらと考えている内に、アスラの傍に歩み寄ってきた相手から声を掛けられた。
当に気付いていたアスラとしては驚く事なく、にこやかに対応する。
……何しろ、ここでは周囲の目がある。アスラも警備の最高責任者である以上は、彼のような海軍本部中将という世界でも有数の戦力として目立つ事も警備の一環だからだ。
「やあ、久しぶりだな、サー・クロコダイル」
そう、近づいてきたのはクロコダイルだった。
見た目は実に暑苦しそうな黒い服だ。
とはいえ、スナスナの実の能力者である彼はまるで平気なのだろうが……見てるこちらの方が暑くなってきそうだ。
とりあえず、人目につかない位置へと移動する。
「それで何をしにきた」
「くっくっく、ご挨拶だな」
「今更お前と仲良く握手という間柄ではないだろう。パフォーマンスでもない限りな」
「違いない」
双方とも警戒はしているが、戦闘態勢には入っていない。
分かっているからだ、今の互いの立場を考えればここで戦闘をやらかす事が双方にとってどれだけ不利益をもたらすものかは。
海軍本部中将と王下七武海。
双方、元々の立場を考えれば親友などと呼べるような間柄ではないのは誰だって分かるが、それでも世界を安定させる勢力を形成する一角として、今この場で争う訳いんはいかない。まあ、クロコダイル辺りは別の思惑もあるのだろうが……。
「改めて聞こう。……何をしにきた」
最悪、上記の理由から戦闘をやらかす事が非常によろしくない話であったとしても、それでもやらねばならないかもしれない。
そんな思いを込めて、アスラは告げる。
もし、この裁判を混乱させる気ならば……いや、既に仕込みを入れているのかもしれない。ただ、騒ぐだけの連中ならば強制排除するよう命じてはあるのだが……。
「そんなにピリピリするな。『今回は』何もしねえよ」
強いて言うなら、警戒心バリバリのお前さんの面を拝みに来たって所かねえ。
と笑うクロコダイルに、アスラはそれでも警戒を隠さない。
これまでやりあってきた体験がそれを許さない。実際に陰謀劇を演じる片割れになってみると、どれだけ陰謀家という奴が面倒で厄介で嫌な奴なのかは散々味わってきた。
「そうか……『今回は』、な……」
「当たり前だろう?」
ああ、当たり前の話だったな。
クロコダイルにしてみれば、本当の話だ。
何が楽しくて、相手が警戒している所へ突っ込まねばならないのか。人間というものはずっと警戒していられるような動物ではない。本気で集中する時間となれば僅か数分。これが一対一の戦闘となれば、場合によっては数時間の集中が必要となるが、それらが訓練で何とかなるとはいえ、著しく体力を削るのは言うまでもない。
元々、今回の軍人の件は実験の要素が強かった。
たかだかたった一つの事件でこれだけアラバスタ王国と世界政府の間をかき回す事に成功したのだから、実験はまず成功といっていいだろう。
どんな事とてそうだ。
最初は小さな規模での実験から始まる。
それが上手く行って初めて、大規模に商売や作戦として組み込まれる。いきなり組織の命運をかけた大博打などする必要は、ない。
「また、会おう」
「……そうだな、また会う事になるだろう」
そう告げ、身を翻したクロコダイルをアスラは引き止めはしなかった。
ただ、彼の背を黙って、砂煙と共に姿を消すまで見送っていた。