第76話−ビンクスの酒
リヴァースマウンテン麓にある灯台。
この灯台へとアスラは1人やって来た。
部下らは現在真水の補給と、交代で休息を取っている。まあ、周囲に見るべきものなどないので、大体が船で寝転がって、疲れを取っているのだろうが。
かと思えば、リヴァースマウンテンの激しい流れに真っ向立ち向かうように吼えるアイランドクジラの様子に、気を取られている者もいる。
「……失礼、どなたかおられるかな?」
ひょっとしたら、原作の如くラブーンの体内で過ごしているかと思ったのだが……。
「……どなたかな?」
どうやら、今日は外にいたようだ。
まあ、一応灯台守な訳だから、ずっとラブーンの体内にいる訳にはいかんよな。よく考えれば。
向こうは、こちらの海軍の服装を見たはずだが、まったく顔色も何も変えてないな……さすがというべきか。
「お初にお目にかかる、私は海軍本部中将アスラという」
「ほう、儂は……」
「知っているよ、海賊王の船医クロッカス殿」
瞬間、目が鋭くなった。
到底今年で御年68歳とは思えない迫力だった。気の弱い奴なら即気絶だな、こいつは……。
「ああ、勘違いしないでくれ。俺が知ったのは偶然だし、隠居した爺さんを今更捕らえる気もない」
「………」
信じてないな、そりゃ当然か……。
「今日来たのは本当に野暮用だよ……そもそも捕らえる気なら、シルバーズ・レイリーに会った時騒動起こしているさ」
「……レイリーに会ったのか」
「ああ、今はシャボンディ諸島で、コーティング屋やってるよ。酒と博打で金が飛んでってるようだが」
「あいつらしい」
ようやっと、厳しい表情が緩んだな……。
これで話が出来るか。
少し落ち着いたらしく、裏に回って椅子に座る。
「で……わざわざ海軍本部中将殿が来るとは何だ?ロジャーの事でも聞きに来たか?」
「いや、今回俺が来たのは、ただ1つ……ルンバー海賊団といえば分かるかな?」
再び眼光が鋭くなった……。
「あいつらがどうかしたのか?」
「ん……多分、貴方が入手した情報では彼らは逃げ出した、って事になってるんじゃないかと思ってな。ほんのつまらんお節介に来ただけだよ、仕事のついでにな」
表向き、ルンバー海賊団はグランドラインから逃げ出した、という事になっている。
その理由をアスラは知っている。
最早、ルフィが原作通りにここを訪れ、そしてブルックと出会うという可能性は絶たれたと言ってもいい。だからこそ、伝えたかった。別に何かを得たいと思った訳じゃない。ただ、動物でありながら仲間を信じるラブーンへちょっとお節介をしてやりたかっただけだ。
ルンバー海賊団がヨーキ船長以下何名かが伝染病にかかり、やむをえず、凪の帯(カームベルト)を通過しての脱出劇を図らざるをえなかった事。
これが成功した反面、鼻唄のブルックを中心として航海を続けた残った面々が魔の三角海域、通称フロリアントライアングルにて、戦った海賊団に勝利したものの仕込まれた毒によって全滅した事などを語った。
「……そうか」
アスラの話を聞き、クロッカスはどこか沈痛な、だが同時にどこかほっとしたような様子で溜息をついた。
おそらく、ルンバー海賊団達の陽気な面々の事を思い、その死を悼むと共に、彼らが決してグランドラインを逃げ出した訳では、ラブーンの事を忘れてしまった訳ではなかった事を知り、どこか安心したのだろう。
「すまんな、これで長年のつかえが取れた…」
クロッカスがそう礼を言おうとしたのを遮って、アスラは続ける。
「ただ……」
「?」
「ただ1人、未だ生き残り、何とか航海を続けようとしている者がいる」
「!?」
椅子に背を預けていたクロッカスが飛び起きた。
「鼻唄のブルック、悪魔の実の1つ、ヨミヨミの実の力で死から生き返った。ただ、1人では大型船を動かす事が出来ず、長年霧の海を漂い続けていた、が……先だって王下七武海の1人、ゲッコー・モリアの悪魔の実の力で影を奪われ、今は霧の海から出る事も出来ないでいる」
「………貴様、何者だ?」
さすがに、クロッカスが疑念の声を上げる。
それはそうだろう、落ち着いて考えれば、どうにもアスラ中将と名乗った人物の情報はおかしかった。
クロッカスにしてみれば、これまで誰も知る事のなかったロジャー達、自らの嘗ての仲間達の事。ルンバー海賊団という50年も前の既に消えた海賊団の存在、自分が遂に『逃げ出した』という話しか掴めなかったというのに、別の真実をさらりと出してくる事、更にはその海賊団と自身の関係に加えて、ブルックの事まで……。
怪しいというレベルの話ではない。
「さあな……俺はCP長官も兼任しているが……今回の事は本当にお節介さ」
CP長官、の言葉に『そういえば、そんな中将がいたな』と思ったクロッカスだったが、それでも疑念は大きかった。だが、それ以上アスラは話すつもりはないようで、そのまま立ち上がり、自身の船へと戻って行った。
……実の所、真実など話した処で信用されまいと思ったからだったのだが……。
結局、アスラが立ち去った後、クロッカスは悩みつつも、ラブーンへと真実を告げた。
彼が何故あのような事を語ったのか、何故あのような事を知っていたのか、疑念は多々あったが、単なる戯言と笑って聞き逃すには、余りにも彼の言う事は真実を多々含んでいた。
……そして、何より。
クロッカスもまた、ルンバー海賊団の彼らの事を信じたかったのだ。
大人しく、ただ静かに聴いていたラブーンだったが、その翌日。忽然と、ラブーンはその姿を消した。
「……行ったか、ラブーン」
急に静かになった双子岬で、クロッカスは静かに佇んでいた。
【魔の三角海域—フロリアン・トライアングル】
年中霧に覆われ、不気味な程に暗い海域。
楽園とも謳われる魚人島へ通る時に必ず通る海域だ。
嘗て、ルンバー海賊団もグランドラインの半ばたる魚人島を目指し航海を続け、そしてここで力尽きた。
毒にやられ、1人また1人と倒れていった。
そうして、最後に倒れたブルックは、しかし、ヨミヨミの実の力で黄泉返り……けれど、この霧ゆえに1年の時が過ぎていた為に肉体は腐敗を過ぎ、既に骨だけと化していた。まあ、成長はしないが、それでも普通に飲み食いし、涙も流せるとは悪魔の実は本当に出鱈目だ。
コツコツ……と荒れ果てた幽霊船と化した船の甲板を1人ブルックは歩く。
黄泉返った当初は、この甲板に仲間の遺骸が転がっていたが、50年もあれば、さすがに葬儀も終わる。といっても船内に納めただけだが、なに、こんなものは当事者の気分の問題だ。
ブルック本人も、黄泉返った当初、この船で再び航海を続けたかった。
だが、この船は大型船だ。
たった1人で動かせるような船ではない。それならば、やむをえない。誰か通りがかった船に乗せてもらおうと考えていたのだが、何しろここは魔の三角海域、濃い霧でまともな視界はなく、ごくごく稀に傍を通りがかった船も自分を見かけると悲鳴を上げて逃げていった。
まあ、落ち着いて考えれば、無理もない。
昼なお暗い、1年に百隻以上の船が難破するとも言われる魔の海域で、ボロボロの幽霊船に佇む、動く骸骨。普通は逃げる。
それでもブルックは諦めず、嘗ての約束を守る為に生き続けてきたが……1年前の1件でいまや自分は太陽の下を歩けなくなってしまった。
スリラー・バークとそこを支配する王下七武海の1人、ゲッコー・モリア。
カゲカゲの実の能力者である彼に、ブルックは影を奪われ、取り返しに向かったものの、己の影を入れられたサムライ・リューマに敗北した。
ふう、と紅茶を片手に今日も霧を眺める。
ふと振り向けば、そこにはピアノが一台。
嘗て、仲間達と最後の唄を演奏した時にも、これで演奏を行なった。
何の気なしに、ブルックはカタリ、とピアノを開いた。
演奏するは無論、あの唄。
〜ヨホホホ〜ホホホホ〜♪
ビンクスの酒を〜♪
歌い始めたブルックだった。
嘗てはこの音楽を引く時は誰かが一緒に歌いだしたものだった。
正式なものは、五重奏(クインテット)で演奏するこの音楽だが、1人でもそれは可能だ。だが、演奏するとふと最後の時のあの事が思い浮かぶ。
四重奏(カルテット)に、三重奏(トリオ)に、二重奏(デュエット)、そして最後は己1人の独演(ソロ)に……。
だからこそ、最近は最後までこの音楽を弾けた試しがなかった。
だが。
ブオオオー!ブオオオー!
「!?」
突然響いた巨大な音。
だが……そのリズムにブルックは覚えがあった。
「まさか……!?」
すうっと暗い辺りが更に陰る。
巨大な魚影が船に寄り添うにようにしているのだ。その姿はあれから比べればとてつもなく巨大になっているが……!
「ラブーン……!あなたなのですか……!」
ブオオオオオオーーーーー!
ブルックの叫びに歓喜の声をクジラが上げる。
呆然とその姿を見詰めつつも、演奏は止めない。その音楽にあわせ、ラブーンも嘗てのそれとは異なるとはいえ、懸命に声を上げ歌う。
「……なんです、あの岬で……まっててくださいと……いったじゃないですか……」
ブルックは片手で演奏しながら、片手で顔を抑える。
今では目玉もない骨だけの顔だけれど、その眼窩からはとめどなく涙が零れ落ちた。
かつて仲間を失った時にも、こんな風に泣きながら演奏した。あの時は悲しみの涙だった。けれど、今は違う。44年ぶりの仲間との……。
ビンクスの酒を とどけにゆくよ♪
われら海賊 海割ってく〜♪
それから魔の海域に新しい伝説が加わった。
その幽霊船では殺されて、骨だけとなった骸骨が音楽を鳴らしているのだという。そうして、歌うと島のように巨大なクジラが共に歌うのだという……。
それは確かに恐ろしい光景なのかもしれないが、それでも聞きたいような楽しい音楽なのだという。