第七歩
テストが終わった休み時間、次の作文のことで私は頭がいっぱいだった。
隣はテストがあんまりだったのだろう。
真白に燃え尽きたようになっていた。
私はいつも疑問思うのだ。
なぜ長期休業明けに毎回作文を書く必要があるのか。
せめて任意にするべきだと思う。
もし何も特にすることなく過ごしていた人がいたらどうするのだ。
書きづらいったらありゃしない。
部活に入っているならそれを書くこともできるだろう。
友達と遊んだのならそれでもいい。
しかし、私の春季休業にそんな青春の香りするものはなかった。
別に友達がいないわけではないのだ。
ただ友達はみんな部活に入ってしまっていて時間が合わず休み中に会うことすらなかったのだ。
それなら部活に入ればいいとも思ったことがある。
しかし、この学校は部活にもかなりの力をいれているのだ。
それにより途中加入者はほとんどの場合脱落する。
それは私も例外ではない。
つまり、私は書くことがないままで5枚以上のの原稿用紙つまり2000以上の文字と格闘しなければいけない。
もはや泣きたい気分だ。
そんなことを考えていると先生がやってくる。
「テストお疲れさん!
今日も残すところ作文だけだ。
おまえらがどんな春休みを過ごしたのか先生は読むのを楽しみにしているぞ。」
先生の言葉にさらに憂鬱になる。
なんとか書くことはないかと先生の言葉を聞きながら、自分の過ごした春休みを脳内で整理することにした。
そして、思い出されるのはやはり特になかった。
いや、ないわけではないのだ。
幻術の練習としては、自分に幻術をかけ、呼んだ本の内容をアニメーションや演劇にして眺めた。
やはり幻術はイメージ力にも若干左右されるものであるようで、以前は映像や、演劇もぎこちなかったり、途中で切れたりもした。
だが、今はそういうこともなく、セリフも動きもぎこちなさは消え、自然に動くようになった。
最近では、空中ディスプレイ風にして映画を眺める感じにするのがマイブームである。
ほかにも、ナイフの形状などを研究するために、ネットで古今東西いろいろなナイフについて調べて、その形で召喚したり、森の中で投げる練習もした。
そしてその練習一環のつもりでダーツも始めた。
しかし、自分の特典にダーツは全く反応することはなかった。
ダーツに似せた投げナイフには反応することから本当にナイフにしか反応しないという事実を発見することとなった。
だが、無駄だとわかっていてもなぜか悔しくてダーツは今も続けている。
ここまで振り返って書けそうなのはダーツのみ。
演劇等は書こうと思えば書けないわけではないが、付近の町でも、海鳴でも春休み中に演劇はやってはいなかった。
少し意味合いが変わってくるが、読んだ本の内容を想像し楽しんだということを書こうとも思った。
しかし、それが事実であったとしてもそれでは自分がただの妄想癖のある少年にしかならないのだ。
読むのが先生だけでもそんな恥ずかしいことは避けたいし、そんな風に認識なんてされたくはない。
だからいつも通り最後の手段をとることにした。
それは春休みにでた課題の問題についての愚痴と、春休み期間中の行動をスケジュール帳を書く気分で、改行と羅列を繰り返しページを稼ぐという方法だ。
出来事の感想は、問題の愚痴がちゃんと書いてあるし、何があったかはちゃんと読み手が理解できる。
これに必要なのはある程度正確にあった出来事を記憶していること。
そうしてなんとか自分を励まし、書き始めるのであった。
修正しました
報告していただいた皆様本当にありがとうございました