第二十八歩
心を折られ、学校をさぼったのが昨日のこと。
さすがに二日もサボるのは心苦しく感じた私は学校に来ていた。
しかし、今日はあまり気乗りしなかった。
その理由は、今日受ける授業だ。
今日の時間割の内容は、
1h数学
2h美術
3h国語
4h理科α
5h音楽
6h地歴
であった。
私は、日本の全教師に問いたい。
芸術科目の必要性はなんだと。
それは将来の何の役に立つのかと。
私は、前世で担任の先生に学校はある種の職業訓練所だと思えと言われた。
技術は確かに、工学系に進む人間もいるだろうから授業として行うのもなんとなくわかる。
だが美術と音楽は何のためにあるのだろうか。
第一、職業として、音楽や美術にかかわる人間が一クラスにいったい何人いるだろうか。
おそらくほとんどゼロだ。
もし、美術が、製図力を養う授業だというなら、その時間を技術の設計図を制作する時間にでもすればいい。
何が悲しくて教科書に載っている全裸のおっさんの像を眺めたり、やたらと濃い顔をした頭像を模写しなきゃいけないんだろうか。
それに、抽象画というものが教科書に載っているのをたまに見かけるが、あれはどう見たって子供の落書きではないだろうか?
ネット等でたまに、有名画家の抽象画を何千万ものお金をかけて買い取る人間のニュースを見るがはっきり言って、ただの無駄遣いだろう。
時間を割いて美術に時間を使う意味がわからない。
そういう意味では音楽もそうだ。
なぜわざわざ、その音楽を聞いて、それに関する考察や感想を書いたり、リコーダ—なんて将来的に絶対に必要になるはずのないものを練習しなければならないのだろうか。
前者に関しては、はっきり言って、音楽にあまり知識のない人間からしたら、綺麗な音が鳴っているなぐらいしかわからない。
そして、後者に関しては、もはやわけがわからない。
もし、そのわけのわからない時間を通常授業に使えれば、きっとゆとり教育で低下した学力だって、向上させることができるはずなのだ。
ここまでいろいろ言ってきたが最終的に何が言いたいのかというと、芸術科目はせめて高校のように選択制にしてほしいということだ。
そして、その選択には高校と同様に書道を入れてほしい。
なぜなら、音楽や、美術に時間を費やすより、字を綺麗に書く練習をする書道の方がまだ時間を有意義の使うことができる。
将来、学校へ願書も書かなきゃいけないし、何か手書きで書く書類だってあるだろう。
ならばやはり書道を選択して字を綺麗に書く練習をした方が将来のためだ。
まあここまでぐちぐち言ったのだ、ほとんどの人はもう分るだろう。
私は音楽と美術が本当に苦手なのだ。
それこそ歌を歌えば、音痴のあまり周りが爆笑し、粘土細工を作れば、何を創ろうとしたのかわからないほどいびつなものができるほどだ。
だが模写は少しだけできるので、製図などではあまり苦労したことがないというのはすこしだけ自慢である。
そして、今の時間は二時間目。
現在は美術室に来ている。
席の並びは教室と同じだ。
「じゃあ今日は今学期最初の授業ということで、ちょっとしたレクレーション風に授業を進めたいと思います。
やることは、先生のところに男女別のくじが用意してあるのでそれをひき、同じ番号の人の似顔絵を書いてください。
それでは出席番号順にひいてください。」
勘弁してほしい。
こういうイベントにおいての女子のイケメンと他での温度差ははっきりいってとんでもなく大きいのだ。
たとえば、6がイケメンで、9が太っっていてお世辞にもイケメンとは口が裂けても言えないような人間であったとする、それで女子はひいた番号を6だと勘違いして、イケメンによって行ったら、実はその番号は9ばんで、6番イケメンとは組めなかったとする。
そんなときの女子の反応を考えてほしい。
多分私の豆腐のようにもろいメンタルだったら、そんな目で見られるようなことになれば、そのまま走って学校から脱走する自信がある。
私には決して耐えられない。
そうして自分の番にが回ってきて、くじを引く。
番号は『2』。
私は、全身全霊を込めて神に祈った。
『相手が、私のことを見ても落胆して、舌打ちをするような人間でありませんように。』
ただそう願った。
いやそうでもしないと、なんだか変なプレッシャーにやられてしまうような気がした。
そして神は願いをかなえてくれたようだ。
「裕也君が2番?」
そんな声が後ろから聞こえた。
明らかにいやそうな声音ではない。
そのことにほんの少し喜びを感じ、返事をしながら私は振り返った。
「そうだy・・・・・。」
そこにはなのはがいた。
私は思った。
『神様なんて大嫌いだ。』