改革7年目の領地報告
エルフとの協定締結から8ヶ月ほどの時が経過したニイドの月エオローの週イングの曜日、つまり8月22日。
ハルケギニアはまさに夏真っ盛りであり、人々は皆、燦々と照りつける太陽を恨めしく思いながらも暑さを耐え忍んでいた。
それはガリア王国辺境の地デュステール侯爵家領も例外では無い。
僕、アリストことアリスト・ラズム・コネサンス・ド・デュステールもまた、侯爵家邸宅の自室にて、猛暑の中で書類と格闘を繰り広げていた。
開け放たれた窓からは生ぬるい風が時折入ってくるが、僕には気休め程度にもならない。
むしろ風が吹くたびに書類がピラピラと勝手に捲れるので鬱陶しいことこの上ない。
しかし、だからといって窓を閉めては、室内に熱気が篭ってしまうのだから仕方が無いのだ。
今の僕の生命線はサラが水の魔法で作ってくれた良く冷えた紅茶だ。
暑さに気が滅入りかけるとこれを飲んで気分転換としている。
一応、サラは水のトライアングルであり、僕は水のスクウェアなので自分でも作れるのだが、自分で淹れた紅茶よりもさらの淹れたものの方が美味しいのだ。
僕は今までずっと走らせていたペンを置き、紅茶を一口だけ口に含む。
しばらく口内で紅茶の冷たさを堪能し、紅茶がぬるくなってきた後ようやく飲み込む。
紅茶が無くなる度に彼女を呼ぶのは悪いので、僕が紅茶を長持ちさせる為に考え出した苦肉の策だ。
ふう、と息を吐き書類仕事を再開する。
その時、チラリと机の片隅に置かれた小さな箱が目に入ったのだが、見なかった事にした。
あの箱は第2次デュステール侯爵家使節団の帰還の際に、エルフ側から僕個人に対し送られた品物だ。
なんでも部屋の温度を調整できる魔道具らしく、エルフが砂漠で快適に暮らすための必需品だそうだ。
あれさえ使用できれば今の状況もグッと改善されるのだろうが、使用するためには水石を消費する必要がある。
水石の相場は風石の4倍である。
使えるわけが無い。
貰った当初は喜んだものの、それが分かって以来、あれは見事に僕の部屋の置物と化している。
僕以外にも王宮に何個か送られたが、そちらでは大活躍しているらしい。
ロベスピエール3世も大喜びだとか。
先日、僕宛で宰相から届いた手紙にてそのような事が書いてあった。
なんでも便利な道具なので、枢機卿を始めとした大臣クラスの執務室にも一個ずつ設置したいから、エルフとの交易で入手しておいて欲しいのだそうな。
くそ、金持ちめ!
ついでに今僕が処理している書類は、それについてのものでありネフテスに対しての要請文である。
あの魔道具は生産数が少ないのであまり輸出できないらしい。
すでに現物を何個かこちらに渡している以上、技術流出を防ぐためでもないので恐らく真実だろう。
今までの交易では全く輸出されていないし、どの程度の代価を支払えば手に入るのだろうか?
まあ、支払うのは王宮だし別に良いか。
僕は『魔道具くれたらそれなりの報酬を王宮が支払っちゃうよ』という意味の書状を作成し、次の書類に取り掛かる。
エルフとの交易は未だにお互いに対する警戒心が緩んでおらず、まだ実験的段階であるため、小規模に留まっている。
交易規模が小規模と言う事は利益も小規模なので、財政への影響は微笑と言っても良い。
しかし交易の影響はしっかりとデュステール侯爵家はもとよりガリア王国全体にゆっくりとだが広がっている。
数点ほど市場に流したエルフの芸術品は、その物珍しさからそれなりの値段で貴族に購入された。
それで得た利益は王宮への税金、交易費用と交易への投資のためにほとんど消え去ってしまったのは仕方ない事だ。
交易品販売額の2割を税金として持っていかれるのは痛いが、この交易は王宮の庇護が無いと存続できないし我慢するしかない。
規模が拡大すればある程度税金を誤魔化せるし、それまでは犬の様に従ってやるとしよう。
交易品の純利益ではなく販売額の2割ってところに王宮のあくどさを感じる。
どうせ考えたのはリシュリュー枢機卿だろう。
工期は1年と92日、総工費7万5000エキュー。
木の棒を草原に突き刺すだけなのに、時間もお金も大分かかってしまった。
しかしこれで領内の物資輸送において迷子は出ないし、輸送路を明確にしておけば輸送計画も立てやすい。
もう完成しちゃったんだし、うだうだ言うのは止めよう。
7万5000という数字をこれ以上見たくないので、さっさとサインをして次の書類に取り掛かる。
できることなら次の書類は心安らぐものがいいな。
次は翼人の書類だった。
なんでも2000人の大台を突破して、2100人程に増えたらしい。
うわー。
どうしよう……本当に翼人たちが加速度的に増えている。
特に問題は無いんだけど、領内に住む他人種がどんどん増えてくるとなんとなく不安な気持ちになる。
頼むから面倒事は起こさないでくれよ?
……心配だから少し対策を立てておくか。
僕は次に翼人たちが移住してきたら、今の集落よりも少し離れた場所に住まわせるようにと書類に書き足しておいた。
心が
紙にびっしりと書かれた文章を読み、つらつらと文字を書きながら僕はポツリとつぶやく。
「書類多くないですか?」
エルフやら翼人やら商会やら色々な事に手を出したから当たり前だね。
僕も言ってみたかっただけで、答えは自分でも分かっている。
多分、いや、確実にこれからも書類は増え続けることになるだろう。
憂鬱な気分になりながらもペンを止めないあたり案外簡単に順応しそうだ。
まあ、前世でも書類は友達みたいなものだったし、当たり前と言えば当たり前だけどね。
そうだ、今日は仕事が終わったらサラと二人で久しぶりに散歩でもしようかな。
最近、サラと二人で遊んでいると母さんや侍女さん達に生温い目でコソコソ話をされてしまうが別に構うまい。
父さんが羨ましそうに見てくるが、それも構うまい。どうせ母さんに睨まれて、涙目になるのがオチだ。
僕は書類を処理しながらも、その光景を想像して思わず笑ってしまった。
書類仕事をしながらニヤニヤと笑う15歳……気持ち悪いね。
僕はすぐに表情を引き締めた。
そうやってしばらく書類を処理していると、ゲルマニア間街道の進捗状況の報告書を見つけた。
翼人が増えた事で建設速度も上昇し、劣悪な路面状況で良いのなら来年にも開通できるらしい。
ゲルマニア間街道は険しい山道なので、路面状況が悪ければ事故率は高くなるだろう。
未だ余裕の全く無い侯爵家の財政状況では、そんな危険を冒してまでゲルマニアと交易をする理由は無い。
報告書には、路面を整えるのならばまだまだ時間はかかると書かれてある。
どうやらゲルマニアとの交易は大分先になりそうだ。
しかし、折角通ることができるようになったのだし、偵察として何人か向かわせてみよう。
もしかしたら森林地帯における希少植物の件のように思わぬチャンスが転がっているかもしれない。
次は風石の採掘状況についての報告書だ。
現在、デュステール侯爵家の風石生産量は領内需要の6倍近くになっている。
余剰分は市場に流していてそれなりの利益を我が家にもたらしている。
今では我が家でも希少植物に次ぐ稼ぎ頭だ。
まさに風石様々であり、風石鉱山に足を向けて眠れないね!
もちろん冗談だ。
しかし風石の採掘量が増えたからと言って我が家のフネは滅多に動くことはない。
そんな事に使う風石があったら売ってるからね。
フネが大空を縦横無尽に飛び回る光景を昔から楽しみにしていたサラは残念そうだったが、こればかりは諦めてもらうしかない。
いつかお金持ちになったら好きなだけフネに乗せてあげることにしよう。
いつになるかは分からないがね。
今度の報告書は交易収支だ。
交易状況は希少植物の安定的かつ大量の生産に成功して以来、劇的に改善している。
なんと驚く事に黒字である。
これは希少植物と風石、エルフとの交易品による輸出額の増大も大きな理由ではあるが、食糧生産の増大とそれに関連した食糧輸入費の減少も一因となっている。
まあ、一番の理由はメイベント公爵家、ケティーネ侯爵家、ファットン侯爵家の3つの協定締結領への武器輸出だけどね。
労働力上昇による農耕地の拡大、何年もかけての地道な地力回復、一部地域における家畜導入などによって、食糧生産量は改革開始前と比べて大幅な上昇を見せている。
このまま行けば近い将来、食糧輸入から抜け出すことが可能だ。
そうすればセリューネ公爵家の当家に対する圧力も大幅に減少させる事ができる。
つまり婚約解消だ!!
やったね!!!
……まあ、現実はそれほど簡単には進まない。
毎年開かれるセリューネ公爵家4女セラスの誕生日パーティーには毎回招かれて、婚約の存在をしっかりとアピールされている状況では、正当な理由が無い限り婚約解消なんて出来ない。
もし理由なく行えば、デュステール侯爵家の評判は確実に落ちるし、セリューネ公爵家はこれ幸いとばかりに、侯爵家から賠償金やら権益やらを王宮を通じて搾り取る事だろう。
だがこのままセラス嬢と結婚でもしたら、今までせっせと築き上げた権益やら財産やらが根こそぎセリューネ公爵家の影響下となる。
その瞬間、デュステール侯爵家はセリューネ公爵家の完全な傘下貴族となるだろう。
全く以って面白くない状況だ。
そういえばセラス嬢は今年で8歳になったのだったな。
出会った当初も可愛らしかったが、今は3歳だった頃とはまた違う可愛さを持っている。
最近は恋愛に興味があるようで、この前の誕生日パーティーの時に愛の告白をされてしまった。
その時のセリューネ公爵の表情ときたら痛快だったな。
まあ、その時の僕は歪みに歪んだ公爵の表情を楽しむ余裕もなく、前世を含めた人生初の告白に気絶しかけた。
8歳児に告白されて気絶しかける精神年齢58歳というのも可笑しなものである。
普段だったら僕がそんな隙を見せればここぞとばかりに喰らい付く公爵が、嫉妬のせいでそんなことを考え付かなかったのは、唯一の救いだったな。
僕は報告書を置き、紅茶を一口飲んでから深いため息をついた。
セラス嬢との婚約が気に入らない訳では無い。
むしろ喜ばしい事だし、父親としてのセリューネ公爵にはそこそこの好感も覚える。
「………だけど、だからといってデュステールを貴様にくれてやる訳にもいかないんだよなぁ」
僕はニヤリと笑った後、書類仕事を再開し、4時間後にようやく終わらせることが出来た。
外を見ればもう夜だ。
僕は最後に確認した書類を机に置いて、椅子に寄りかかって眉間を揉んだ。
サラとの散歩は明日にしよう。
デュステール領に関する統計報告書
デュステール領
ガリア王国北東国境地帯に位置し、ゲルマニア領、エルフ領に接する
面積8000k㎡
人間人口75000人
翼人人口2100人
総合人口77100人
穀物自給率63.554%
歳入263万エキュー
交易輸出額809000エキュー
交易輸入額682000エキュー
家臣団1100人
諸侯軍600人
一次産業従事者比率88%
二次産業従事者比率8%
三次産業従事者比率4%
軍事
フネ10隻
竜騎士40騎
メイジ200名
騎兵300騎
歩兵100名
駐屯可能兵力
フネ800隻
竜騎士1200騎
騎兵120000騎
メイジ・歩兵200000名
砲亀300頭
防御陣地
永久陣地8箇所
エルフとの国境線全域に塹壕、簡易防壁
固定火砲800門
備考
家臣団は業務内容より一次産業従事者とみなす。
駐屯可能兵力については聖戦時のみの数値である。
時期によって一次産業から2次産業に移転する場合は一次産業従事者とみなす。