第百十三話
北郷一刀、馬超が率いる八千と関羽が率いる二千の軍が衝突……する前に北郷側に混乱が生じた。
「か、一刀!じょ、上軍校尉って霊帝直属である西園軍の最上位職ですよ?!」
権威に弱い姜維がビビリながら叫ぶ。
北郷達が想定のしていた中で一番最悪な事態が起きた。
当初の想定では禁軍や西園軍が出撃してくるとは思っていなかった。
それは袁術達が粛清を行ったのは宦官や俗に濁流派と言われる宦官に媚を売って成り上がった者達だけだと北郷達は聞いていた。
だからこそチャンスだと思って行動を起こした。
濁流派が粛清されたとなれば残るのは良識を持つ清流派だけであり、清流派は名立たる名門名家ばかりである。
そんな相手だからこそ袁術も気を使わざるを得ず、独裁政権を構築できず、太傅だから漢王朝の正当な軍権を手に入れることはできないだろうと踏んでいた。
故に袁術が使える兵は徴兵した農民兵と南陽から連れてきた兵とだけ戦えばよかったはずなのだ。
それの前提条件が崩れた、と姜維は頭を抱えたくなった。
「……作戦変更!転進!」
姜維の言葉と反応に権威への怯えだけではないことを察し、このままだとまずいと判断した北郷は最善だった策を放棄することを決定する。
馬超も反対しなかったため、兵士達もそれに従う。
(まだ策はある。でも——)
一戦は交える事になりそうだ、と北郷一刀は悟った。
あまりに距離が近くなりすぎ、方向転換している最中に接触することになる。
ここで関羽と……正確には西園軍と戦いたくはなかったが北郷だったが望みは叶いそうにない。
「……か、一刀様」
「——ダメだ。姜維っ!」
権威に怯えている姜維だが、そこには確かな覚悟があった。
そして、その覚悟で何をしようとするのか北郷一刀は察して制止しようとするが、覚悟を決めた人間はそう安々と止まるはずもない。
「お元気で」
姜維は千の兵士を率いて関羽の部隊へ突撃する。
殿を務めるつもりだ。
「はぁ、姜維ちゃんだけじゃ死んじゃうからたんぽぽも付き合ってくるね」
「蒲公英っ!」
一刀の声に反応することはせず、自身の姉へと笑顔を向けて——
「お姉様、がんば!」
「……死ぬなよ」
「もちろん、姜維ちゃんと一緒に合流するよ」
行ってくるね。と言い残し、五百の兵を連れて姜維の後を追う。
「降ってくれれば簡単だったのだが……ここまで来た者達がそう簡単に降るわけがないか」
関羽はこちらに向かってきている部隊を見て、自身が呟いた言葉が傲慢に過ぎるなと思い直して苦笑いを浮かべる。
もし自分が反対の立場であったなら同じような行動をするだろうと思い直した。
「しかし……帰ってきたばかりの私が西園軍を率いることに……しかも上軍校尉とは」
これが権力を持つということなのかと恐れと尊敬を抱く。
自身が得た権力など大したことではない。まだ実績を示せていない今はお飾りに等しいだろう。
しかし、そのお飾りを成立させたその権力……太傅という権力はそれだけの力だということなのかと関羽は改めて思う。
「……袁術様が暴走しないように注意せねばな」
暴政を行うとは思っていないが、蜂蜜の暴走はしかねないと思うのは袁術を支える幹部の共通の思いだ。しかし、それを阻止するつもりでいる幹部もまた少ないことが悩みの種である。ようは皆が皆、袁術に甘いのだ。
そんなことを考えていると敵が射程に入った。
「放て!」
西園軍は以前関羽が率いていた騎馬隊と同等の装備がなされており、使い捨て弩による射撃が行われる。
その弩の射程は涼州兵が得意とする騎射などより広く、先制攻撃に成功する。
それほど強力な弩を用意しているとは思っていなかった涼州兵は次々と一方的に討ち取られていく。
一部の猛者達は切り払うことで逃れているが反撃することはできない。
斉射が三回を終える頃にはお互い接触する距離となり、その段階で涼州兵が行えた反撃はできず、西園軍は無傷のままであった。
「ハアアァァ!」
先頭を突き進む関羽による気合の一撃は突撃同士でありながらも涼州兵をまとめて十人以上を吹き飛ばす。
その光景を遠目から見た馬岱は——
「あの黒髪、お姉様と同類?!」
と心が折れそうになっていた。
馬岱の姉である馬超の武力は涼州で一二を争い、鳳徳と並んで双璧を成す存在であり、それと同時に脳筋の双璧だとも馬岱は思っていたのだが、袁術達から言わせれば涼州全体が脳筋だと答えたことだろう。
「……生きて帰れるかなぁ」
自身の武が姉に遠く及ばないことは自覚している。
そして、あの黒髪の死神にも箸にも棒にも掛からないだろうということもわかるからこその思いであった。
「姜維ちゃんは……やっぱりそうなるよね」
姜維は涼州陣営の中では楊阜と並ぶ頭脳である。
そんな彼女がこの状況でどうすることが最善か考えた結果は——
「か、関羽雲長殿、勝負!」
関羽との一騎討ち。
力や経験こそ馬超に劣るが技術は優れていて馬超と僅差で負ける姜維なのだからこの選択は当然のものだった。
「……恐怖で震えるぐらいなら軍門を降れ。今なら家族にまで罪が及ばぬよう計らおう」
これが最後の通牒であり、もしこれを断るのならば一族郎党皆殺しである。
それだけ反逆罪は重いものなのだ。
この言葉に姜維が止まった。
「母上……」
自分が勝手に北郷一刀に仕えただけで母親は関係ない。そう叫びたかった。
病気がちで満足に仕事ができない母親だが、自分を立派に育ててくれた。それなのに、反逆者という汚名を着せなくてはならないのか——そんな思いが姜維の心を蝕む。
でも、それでも——と槍を強く握りしめ、強い声で答えた。
「我が主に恥ずかしい姿を見せられない」
「ほう……その意気やよし。相手になろう」
(武の才はあるな……母親に心残りがあるようだな。母親の免罪を条件に引き入れることが可能かもしれない)
武官の少なさに頭を悩ませている自分達であるから敵であろうと、それこそ反逆者であろうと引き抜けるなら引き抜くつもりでいるのが袁術陣営の方針である。
それに反逆者として本当に一族郎党皆殺しにしてしまえば反感を抱く者が多くなりすぎるための処置である。
「いきます」
姜維は、ただただ真っ直ぐに槍を突き出す。
その速さは並大抵の者では防ぐことができないものだった……だが、関羽雲長は並ではない。
「ッ?!」
先に攻撃をしたはずの姜維が槍を引き戻して首に迫る青龍偃月刀を受ける。
「——アアァ?!」
しかし、受け止めきれずに吹き飛ぶ姜維。
それを見て関羽は頷いて才を確認していた。
「受けずに流したか」
姜維は斬撃を受けた瞬間に完全に受けてしまえば槍ごと自身が斬られると判断して自身で跳んでなんとか命を繋いでいた。
しかし、その手に持っている槍は既に斬られていて、吹き飛んだ際に足も捻ってしまい、戦うことすらままならない。
「そしてそこにいる娘、動いたら斬るぞ」
奇襲しようと密かに接近していた馬岱にそう告げる。