第百二十話
<北郷一刀>
死の足音ってよく映画とか漫画とかで比喩されるけど、本当に聞こえるんだと今知った。
これが本当の戦場。
いつもはついて回って指示を出すことが役割だった。
それで戦場で戦っているつもりだった。
でも——俺自身の命が脅かされることは今までなかった。
馬騰さんが、翠が、蒲公英が、姜維が、鳳徳さんが、守ってくれていた。
今、その守ってくれていた存在はいない。
そして、目の前には三国志の中で一番地味な国、呉の王として君臨していた人物が俺に殺意を向けて突き進んできている。
それを阻もうとする兵士が吹き飛ばされる姿はまさに無双。
四肢が震え、力が入らず、声も緊張で出せない。
それによく見ると孫権以外の敵もあの動揺が収まってからなぜか強くなっているように感じる。
このままでは俺達は——
「逃げな、坊主」
「戦場に兵士以外がいても邪魔なだけだ」
「これはもう負け戦だ。馬超様と合流して落ち延びろ」
「馬超様と馬岱様を泣かせたら殺す、殺しても殺す」
次々と周りの兵士達が別れの挨拶のような言葉を投げかけてくる。
「まだ負けてない、まだ行ける。兵数だってそんなに差があるわけじゃない。それに袁術は目の前にいるんだ」
そう、ここを逃せば勝つ見込みはなくなる。
袁術、魯粛は戦場に出てくる機会なんて今回を逃すと二度とチャンスは来ない。
だからこそ、怖くても、逃げ出したくても戦わなければ——
「数で劣り、口惜しいが質でも劣り、装備も劣る。勝つ見込みなどないよ。袁術を狙って突破を試みた奴らもいたがそれも失敗している……だから早く逃げな……ほれ、迎えが来たぞ」
「一刀ーーー!」
姜維、なぜこっちに……てか、後ろには魯粛?!
やばい、これじゃ無防備な横腹を刺される!なんでこっちに来たんだ。
「これ以上は無理です!撤退します」
「ダメだ。このまま撤退してら馬騰さん達……いや、涼州がっ」
「問答無用!御免!」
「ちょっ——」
男の俺がお姫様抱っこってどうなの?!いや、そうじゃなくて、せめて最後の命令を——
「全軍撤——」
「殿をお願いします!」
「「「おう!」」」
「姜維?!」
「私達が逃げるには時間が必要です……それに彼らも歴戦の勇士、引き際は心得ています」
……本当、か?突撃馬鹿な皆が本当に引き際なんて知っているのだろうか?
騎射で逃げ撃ちするのはあくまで数が劣っている時だけで、逃げてる最中に歯ぎしりが鳴り止まない彼らが本当に引くことなんてあるんだろうか?
姜維の拘束を振りほどくこともできず、もし振りほどくことができたとしても落馬してしまえば怪我をしてしまうだろう。
俺は、俺達は……結局何をしに、ここに来たんだ……あれ、服が濡れて——っ?!
「姜維、その傷は?!」
「敵将が……魯粛が思った以上に強く、良い一撃をもらっちゃいました」
「大丈夫なのか」
「まだわかりません。振り切った後に休息にするのでその時にに見てみないとなんとも……」
……そうか、姜維が俺を連れに来たのは自分自身も限界が近かったからか。
姜維がもし倒されたりすると魯粛が自由になる。そうなると本隊である俺達は窮地に立たされることになり、負けるのはほぼ決まってしまう。
つまり……もう負けていた、のか。
こうして俺達の乾坤一擲の作戦は失敗に終わった。
そして、この後、この世界に来てできた大事な家族を二人、奪われたことを知った。
「申し訳ありません。姜維の進行の足を止めるだけで逃走を妨げることまではかないませんでした」
「良い良い、魯粛が無事であることの方が重要じゃ」
それにしても北郷一刀もしぶといのぉ。
何より涼州兵が無駄に頑張り過ぎ乙。
殿のつもりなんじゃろうが、ぶっちゃけ吾等が追いかけることはせん……というかできんのじゃよ。
なにせこれから洛陽に帰って内応者を裁かねばならんし、仕事も捌かねばならん。お、今吾うまいこと言ったか?
こちらの事情を知らんから仕方ないが本当に無駄に頑張ったおかげでその数を千五百程度まで減らした。
こちらも三千ほどまで削られた……つまり二千もの損害が出てしもうたわけじゃな。
ぐおおおぉぉぉ、吾の親衛隊が二千も減ってもうた!
金なんてドブに捨てても降って湧く、中国の偽ブランド、雨後の筍のようなものであるのに対して人はいくら金を掛けても育つのに時間が掛かるんじゃぞ?!
ああ、頭が……頭痛が痛い。
「お嬢様、再編成が終了しました。いつでも動けます」
「うむ、戦って疲れたじゃろうにご苦労じゃったな」
報告しにきた孫権の様子をこっそり伺うが……いつもと変わらんな。
いったいなぜ最前列、いや、先頭で戦っておったんじゃろ?やはり孫権にもしっかり孫家の血が受け継がれておったということじゃろうか?しかし、それにしては劉勲達の反応が……いったい何なんじゃろ。
何にしてもなるべく戦場には出さない方が良いな。
「ところでお嬢様……傷の具合は……」
「足もしっかり動くから神経は無事じゃ。しかし、しばらくは歩くこともままならんじゃろうな」
「……申し訳ありません。もう一歩というところで取り逃がしてしまいました」
「全く、おぬしらは真面目じゃのぉ。確かに取り逃がしたのは惜しいが、致命的ではない。むしろ、この策を事前に察知できなかったことと内応者を出したことの方が問題じゃ」
やはり情報は大事じゃな。
もし察知しておればこのようなことにはならんで済んだじゃろう。
「それに……ただで帰すつもりはないからのぉ」
そう……『吾等は』追撃はせん。だが誰も追撃をせんとは言っておらん。
奇襲された際には別件で出かけておったため間に合わなかったが、奇襲を知ってつい先程帰ってきた恋姫の中でもっとも敵に回すと厄介な武将No.1を相手に何処まで耐えられるかのぉ。
「頼んだぞ。周泰」