第百三十二話
<汜水関>
梯子も攻城兵器も持たずに城壁に到達した反袁術連合の兵士達は少しの間、何をどうしたら良いのか途方に暮れていたが後方からある物が届いた。
それは武器と言うにはあまりに頼りなく、農家にとっては慣れ親しんだものだった。
まぁ簡単に言うと鍬(くわ)だ。
そして指示は一言、掘れっ!である。
城壁を崩す、もしくは越えるために穴を掘るというのは特に変わった戦術ではない。
強いて言えば労力を多く消費するために人の数が多い大軍で行わなければ効率が悪いという程度のことだ。
しかし、それも城壁の真下で掘るというのは非常識以外の何物でもない。
とは言え、これにはいくつか事情があるが大まかに分ければ二つ、まず兵糧の不足による長期戦を望むことができないため、次いで梯子などで登って攻略するには汜水関の城壁はあまりにも高過ぎて効率が悪いため、最後に袁紹ざまぁが難攻不落の汜水関を崩したいという自己顕示欲に囚われたことだ。
つまり、時間短縮するために兵士の消耗を度外視した作戦だ。
もっとも上から妨害が行われることを考慮して櫓を組んで守る予定ではある。
もし相手が妨害のために出撃してくるなら野戦でなら兵数が多い反袁術連合が有利と思っての判断だ。事実、兵士や装備の質が上回っているとは言っても袁術軍は七倍の兵数を相手にするとなると消耗戦になり、理論上は反袁術連合の勝利となる。
それに反袁術連合は加味していないが、袁術側の事情として正規兵が半数を切るような戦いをすると親衛隊の消耗と重なり、この後の領内の統治に問題が生じることが予想されている。
職業軍人は農民兵と違い、育成に時間が掛かるためすぐに補充できない。それを埋めるために徴兵を行えば質の低下は否めず、十中八九治安を乱す原因となる。
「なるほど、なかなかに大胆な厄介なことをしてくれますね」
文聘の計算から外れる一手に頭を悩ませる。
今のところ掘る人員を守るための櫓の建築を始めたのを察知して関羽が妨害している。しかし、それで防ぎきれるかわからない。
それに関羽が担当している場所だけであれば問題ないが他の場所でも同じようなことが行われることは簡単に予想ができる。
そしてそれら全てに対処するのはなかなかに困難だ。
「……袁術様が以前戦争とは数なのじゃ!と言っていましたがこうやって立証されるのは嬉しくありません」
文聘は今まで己の計算と兵士の質で数の差を物ともせず勝利してきたため、あまり自覚はなかったが数というのはここまで力になるのかと改めて実感した。
本当は日頃から政務でも人海戦術を行っているのだが全ての人員を把握しているわけではないので知らずにいる。
更に加えると投石機、連弩、床弩はその性質上城壁付近は射程外で妨害できない。
こうして袁紹ざまぁの何の考えもなしに発案した策だったが思った以上に袁術軍を苦しめることとなる。
<孫策伯符>
「……冥琳、この誘いどう思う」
今読んでいた手紙の感想を親友に求めてみた。
この手紙は南荊州の零陵、長沙、武陵、桂陽を治める劉備玄徳からのもの。
そして内容は、袁術ちゃんの下で恵まれない環境にいる私達孫家を受け入れたいというものなんだけど……ねぇ。
「思慮するに値すると思っているのか?」
「このまま戦乱に突入するなら、天下を狙うなら一つの手段ね」
このまま袁術ちゃんの下にいたとしても私達は独立できない。
独立のようなものはできるかもしれないけど、それはあくまで袁術ちゃんという後見人の下で、ということになる。
蓮華は思った以上に袁術ちゃんにお熱のようだし、重用されているようだけど……私の扱いは雑なのよねー。袁術ちゃんも蓮華も。
「天下など今の現状で狙えるわけがない。雪蓮の器は十分だと思っている。しかし人材が足りないぞ。これだけ文官を充実させているここですら溺れるほどの書類で連日徹夜だというのに天下なんぞ……そもそも雪蓮も狙ってはいまい?」
「そうね。他に人がいないなら狙ってもいいけど……」
今、一番天下に近いのは間違いなく袁術ちゃんよね。
……袁術ちゃんが、中華を、治め、る?……しょ、将来が不安になってきたわ。
大陸中が蜂蜜の匂いで充満するところまで想像できたわよ。
「それにしても……恵まれない環境、ね」
普通に考えれば客将としてどころか正規の将ですらありえない額の給金を貰っているし、えーっと袁術ちゃんが言ってた……そう、福利厚生も充実しているわ。
これは私だけではなく、冥琳や祭も含める孫家全てに対してなのよ……太っ腹過ぎて私達が肥満になりそうなくらい。
「なのに恵まれない、かぁー」
劉備玄徳本人か、それとも支える者かは知らないけどよく調べてるじゃない。
今の私は飼い殺しにされているのと同じ。
このまま袁術ちゃんの下にいればそれ相応の地位が手に入ると思う。
前は袁術ちゃんが約束を守る気がないのかと思ったけど、よく考えると袁術ちゃんが約束を破ったという話を聞いたことがないし、冥琳に調べてもらっても出てこなかった。
それにあの堅物の蓮華が近くに居てそんな汚いことができるとは思えない。もしそんなことがあったら蓮華は間違いなく離れているはずなのよ。
だから、私が袁術ちゃんの条件を満たせば太守にはしてくれるのは間違いない。
でも……それはとても窮屈で、つまらなくて……燃えないのよ。
私の力で手に入れたものじゃない。
戦って勝ち得た証じゃない。
「雪蓮……孫家のことを考えるなら止めておきなさい。間違いなく多くの血を流す、修羅の道よ。……ただ、雪蓮が自分のために動くなら止めない。私も修羅の道を一緒に歩もう」
「冥琳……」
「二人共、そこまでじゃ。そのような考えには儂は賛同できん」
「「祭」」
「今、おぬしらが動くことでどの程度大勢が変わるかわからん。わからんが現状袁術様を裏切るのは不義理が過ぎる。それに……今だから言うが……袁術様に頼ることになったのは儂の一存ではなく、堅殿の遺言によるものじゃ」
「?!それは本当なの?!」
「うむ、今まで言わんで悪かったの」
「なぜ今まで言わなかったのよ!」
「……私達が袁術に不信を抱いていたからですか」
「それは途中からじゃな。最初の頃は……儂自身も袁術様を疑っておったというのもある。もしこの遺言を告げればおぬし達は袁術様の下を離れるという選択肢を選びにくくなっておっただろう。堅殿は袁術様を大層信じられておったが儂は信用できなかったのじゃ。堅殿には悪いが、袁術様が信用出来ない時は儂がここを離れることを切り出すつもりでいたのじゃ」
「「……」」
それは……そうかもしれないわね。
母様が私達を、孫家を預けるほど袁術ちゃんを信用していたなんて想像ができないもの。
「堅殿は袁家に尚香を入れろとまで言い遺されたが……」
「今では蓮華様が入り浸っておいでですね」
冥琳が冗談ぽく言う、どうやら遺言を黙っていたことに怒ってはいないみたいね。
かく言う私も怒ってはないんだけど……これからどうしようかしら。