第百三十三話
大陸中で激震が走った……というのはかなり大げさだが大陸で一番の勢力の中では間違いなく激震が起きた。
それは孫家が袁術の下を離れたというものである。
もっとも客将という立場であった孫家一党は手順に則り、離職手続きを行ったので規則や契約上は問題ない。
ちなみに孫家一党には郭嘉や程昱などに盛り込まれていた契約期間に関しては特に記載はなかった。
これは袁術が孫家、特に孫策が離れたいと思った時に離れられない場合、謀反に走られると面倒だからという理由で記載しなかったのだ。
こうして割とあっさり孫家一党は袁術の下を離れていった。
ただし、一番の震源地がそう簡単に納得できるはずはなく——
「何を考えてるのよ!あの馬鹿姉っ!!」
と手に持つ書類を処理しつつ叫ぶ孫権。
どんな体勢でも体調でも心理的状況でも、怒りに震えようが恋人ができて天にも昇るような幸せの絶頂であろうが嫉妬に狂っていようが、書類の処理は乱れるような未熟者は袁術の幹部には存在しない。
少しの停滞は命取りとなるから。
「冥琳も冥琳よっ!なんで止めないのよ!!しかも私には何の相談もしないってどういうことっ!」
洛陽と江陵では物理的に距離があるにしても商会の特急便なら早くて一日、平均で二日、混雑していた場合でも四日程度で届けることができるのだからそうも言いたくなるだろう。
もっとも相談があったところで言い争いが激しくなり、いらぬ心労が増えるだけなので孫策の意思を尊重するなら最短の選択肢なのだ。ちなみに周瑜の入れ知恵である。
「なんでよりにもよってこんな時に……いえ、成り上がることを目指すなら今が絶好の機会というのはわからなくもないけど……お嬢様にどれだけの恩を受けてると思ってるのよ」
ついつい判を押す手にも力が入り、ミシミシという判子の悲鳴をあげるが残念ながら救助する人間は誰もいない。
孫家が出ていったから孫権が冷遇……されているわけではなく、ただ単に孫権の怒りが怖くて退避しているだけである。
もっとも孫権自身は周りに人が居ないのは孫家が離脱したからだと思っている……悪循環。
「皆に愛し愛される!皆の娘シャオちゃん登場!」
「……誰ですか、申し訳ありませんが今の私には悪ふざけは通じませんよ」
「ひぅ……袁術ちゃんがお姉ちゃんが怒って怖いから和ましてやってって教えてくれたのに……ぐすっ」
怒りに理性が隠れんぼ中の孫権の覇王色の覇気を受け、孫尚香は泣きべそをかき始めた。
「…………え?小蓮?なんでここに?」
「ぐす、ぐす」
「ああ、私が悪かったから機嫌直して」
と言いつつ判子を押すのを止めない。
止めると仕事が溜まるから、止めると寝る時間が減るから、止めると……前線で戦う兵士達の命が危うくなるから。
「ぐす……って可愛い妹が泣いてるのに全然慰める気ないよねっ?!」
「ごめんなさい。これも職務なのよ。知ってるでしょ?私の上には四人しかいないのよ?」
孫権の上には最上位袁術、宰相魯粛、将軍紀霊、便利屋(嫌がらせ外交兼務)張勲しかいない。
「おぉー巷で蜂蜜様が大陸を制するって噂で持ち切りなのに……そんなところの五番目に偉いなんてお姉ちゃん凄ーい」
(……そうよね。そう思うわよね。でも……実際は民の奴隷なのよ?偉い色々できるけど仕事も相応に多くなるから……睡眠時間なんて奴隷より少ないのよ?食事なんて判子押しながらよ?寝台が書簡の上だったりすることもあるのよ?夢の中でも判子押してるのよ?それでも凄い?)
孫尚香のキラキラした瞳を向けられた孫権であったがハードワークと尊敬していた(過去形)姉の離脱も重なって疲れているためネガティブ思考に陥っている。
「それで小蓮はなんでここにいるの?」
「えー、なんでって……当然でしょ。野望を持ってる姉様はともかく私が野望を持ってるように見える?」
「……玉の輿を狙うような野望は持ってそうね」
「アハッ、さっすがお姉ちゃん!わかってるぅ〜」
「まとめると雪蓮姉様を見放してこちらに残ったということね」
「なんだか言い方に棘があるけど平たく言うとそんな感じ……あ、でもシャオだけじゃないよ。千人ぐらい残ったし、陸遜はお姉様に付いてっちゃったけど呂蒙も残ったし」
「……見事に孫家分裂してるわね」
「仕方ないと思うよ。ここは温くて居心地が良くて天国みたいだけど、代わりに緊張と戦場を求める人には地獄っぽいしねー」
(天国……天国ですって?……ハッ、実情を知らない人達はこれだから……)
ネガティブ思考継続中。
「ところで呂蒙というのは?」
「呂蒙子明っていう最初に会った頃は文字も読めないお馬鹿だったんだけどいっぱいいっぱい勉強を頑張って今では冥琳に一目置かれるほどになった頑張り屋さんなんだよ。後武術もでき——」
孫尚香が言い終わる前に孫権が詰め寄り、小さい両肩を掴んでいた。
「その人を是非紹介してください」
「ちょっ、痛っ、力強っ?!やっと判子押すの止めてこっち向いたと思ったらこれ?!」
そんな声も今の孫権には届かなかった。