第百五十六話
「桂花、調子はどう——」
「華琳様ぁ!助けてください!書類が!書類がっ!」
切実に訴える荀彧を横目に、文官や女官達は喜々として次々と書類を積み重ねていく。
それはあまりに荀彧が有能で、処理が早いため、自分達の負担を押し付けようとしているすごたである。
荀彧も最初の頃は文官達に褒められ、煽てられて調子に乗ってガンガン仕事を熟していた。だが、時間が経つにつれて書類の山が全く変わらないどころか増えているのを確認した時に、王佐と呼ばれるほどの才を持つ荀彧の心を翳(かげ)らせてしまう強敵となる。
この書類に関しては半分がこの度の討伐軍に関するものであるが、もう半分は当たり障りがない虎牢関や汜水関、揚州の袁術軍のものである。
「貴方達も仕事を全うしなさい」
文官や女官達が自分達の仕事を荀彧に押し付けたことを見抜いた曹操がそういうが、文官達は、有能な奴を扱き使って何が悪い、立ってるものは親の仇でも使えってのがウチでは当たり前なのよ、まだ徹夜二日目だろ?軽い軽い、七日経てば新しい世界が見えるわよ、え?十日じゃね、最高の猫飯を用意してやるからやれ、今ここにある分が終われば私達が寝れるから……などなど口々に愚痴と怒声を返した。
最近は曹操の位階が高く、元々の威圧感もあって自身より下位の存在に反論するものがいなかったこともあって一瞬目を白黒させたが、ここは天下の洛陽であることを思い出して納得したが、彼らの言い分を納得するかは別の問題である。
「とっとと仕事に戻らないと貴方達が暇をしていると魯粛に……いえ、張勲に言うわよ」
言い終わるか終わらないかわからないぐらいで彼らは素早い身のこなしで遁走していった。
張勲の陰湿さはここでも通じるのだと確認できた曹操だったが、こんなことを確認したところで何だというのかと苦笑を浮かべながら疲れ果てている荀彧に労いの言葉を掛ける。
「大変だった……いえ、大変そうね。桂花」
「華琳様ぁ。何なんですかここ、どう見ても一桁、二桁……いえ、三桁間違ってるとしか思えない数字が目の前に並び続けるんですよ!それに確認事項も多すぎて……ただ、書式と数字が実数なのは分かりやすくて助かりますけど」
百合百合しい空気で部屋を満たしながら愚痴のように報告会を始める。ただ、その内容は今のところ曹操も感じた点と変わりない。
「それで例の物の解析はできたの?」
「弩のことですね。以前の報告にあったように既存のものよりも軽く、射程が伸びていることが確認できました。ただ……生産は難しいと思います」
「なぜかしら」
「素材から希少な金属、木材、動物の皮などが使われていてとてもではありませんが量産など不可能です。そして一番の問題は技術ですね。複雑なからくりが使われているため製造もままなりません」
「そう……可能な範囲で作るとしてどの程度なのかしら」
「予算だけですと一ヶ月で十届くかどうか、製造には劣化品を作るまで半年は見るべきですね。同じ物を作るとなると十ヶ月、そこから量産できたとして月五で良い方らしいです」
「……冗談じゃないわよね?」
「残念なことに」
これらは性能重視した結果でもあるが、複雑化させることにより盗作されないように、盗難されても整備できる環境でなければ使い捨てでしか運用できないように袁術が考え、李典が形にしたものである。
資金だけは無駄にある袁術、技術屋としては類を見ない李典の二人が揃っているからこそできる繊細な力技である。
ちなみに袁術の案により、李典は今これらの技術を応用して懐中時計を作ろうと研究中であったりするがこれは余談だ。
「投石機でしたら簡易型と呼ばれる方なら模倣もできます。ただ、標準型と呼ばれるものの方は……」
「難しいのね」
「はい。投石する要の部分が複雑なからくりで作られ、しかも台の部分にも連動するように何かが仕込まれているようですが、さすがにこちらは大型であるために分解するわけにもいきません」
こちらはより弩より大型であるため盗作防止……ブラックボックス化が更に顕著に現れている。
「……そんな品物を美羽は何千という数を揃えているわけね」
「そういうことに……なりますね」
しばし沈黙が訪れ——
「「ハァ」」
二人揃って重い重い溜息を吐いた。
今はまだ袁術と協力している関係ではあるが、曹操はまだ漢王朝に変わる国を創るという野望は潰えておらず、荀彧もまたそれを支える気概でいる。
しかし、この財政力を見せ付けられると憂鬱な気持ちになるのは仕方ないことだろう。
現代ほど顕著に財政力が軍事力(科学技術を含む)に直結するわけではないが、この時代であっても財政力が軍事力と結びつくのは同じであり、その差を感じるには優れた能力を有するこの二人には膨大な軍を見せるよりもずっと効果があったのだった。ちなみにこれも袁術の策略の一つだ。
「し、しかし冀州を手に入れれば多少は差が埋まるでしょう」
「それもどうかしらね。まず間違いなく今回の戦いが長引いたことで冀州は荒れているでしょ。それを立て直すだけでも大変そうよ」
空気を変えようとした荀彧の発言を一刀両断する曹操は何やら思案する。
「……いっそ美羽に資金援助を頼むのも手かしら?」
「……検討しておきます」