第百七十二話
文醜が関羽に討ち取られたという情報がまだ統制が保てていた反袁術連合の諸将に伝わり、動揺が走る。
もっとも動揺したのは夏侯淵の部隊と戦っていた袁紹と夏侯惇の突撃を何とか受け流そうとしていた顔良の二人である。
親友が亡くなったとしても私情を挟まず、今やるべきことを行うのが主君として、将としてあるべき姿、ではあるがこの二人にそれを求めるのは酷と言えるかもしれない。
そんな状態でまともに戦えるわけがなく、夏侯淵には陣形を無残なまでに崩され、夏侯惇には陣深くまで切り込まれ、もう少しで顔良に迫るほどにまで詰め寄られている。
そしてまとまっていた反袁術連合も動揺から乱れ、撤退を余儀なくされていく。
完璧な敗北である。
そんな袁紹の下に敗走していた文醜の部隊が合流した。
そしてそこには文醜の亡骸が……ではなく——
「猪々子さん?!ご無事だったのですね!」
「これ……が、無事って、言える……のか?」
文醜は脇腹を何十にも包帯が巻かれ、右腕がダラリとぶら下がり、左脚は力が入らないようでズルズルと引き摺り、兵士に支えられながら歩いていた。
軽く見ただけで重傷とわかる姿を無事と言えるのかという文醜の思いも分からなくもないが——
「いいんですのよ。生きてさえいてくれれば!」
「麗羽様」
これほど自分の身を案じてくれるとは思っておらず、感動で涙が出そうになる文醜だったが、残念ながら痛みのために散々涙を流した後であったため、枯れ果てて出なかった。残念。
「そうですわ!猪々子さんが無事であることを斗詩さんに早く伝えて差し上げなくてはいけませんわ。伝令を——」
「それなら既に私(わたくし)が手配いたしました」
と文醜を支える兵士が伝えると袁紹は、あら、良い心配りですわね。といつもの高飛車なお嬢様風な笑顔ではなく、自然な笑顔で褒めた。そのような表情など見たことがなかった兵士は日頃とのギャップにあたふたするが、それは余談か。
それにしても、今まさに自分達が戦争に負けそうだと言うのに緩い空気である。もしかするとこれは袁家の血筋の力かもしれない。
「麗羽、様……これを……」
「あら?このような状態で渡すなんて……恋文かしら、それとも遺言?もし後者なら折檻いたしますわよ」
「関羽……あたいを、こんなにした奴から預かっ……預かった?」
「なぜ疑問形なんですの」
それは仕方ないことである。なぜなら文醜が必死になって防戦を繰り広げる中でこっそりと鎧に忍び込まされていたのだから。
ちなみに文醜の怪我は受けた最後の一撃は刃ではなく、峰で打たれたもので、その一撃により鎧が弾け飛び、皮膚がはち切れ出血、その威力をもってそれまで以上の勢いで宙を舞い、そして地面に激突した際に右腕と左脚を負傷したのだ。
「関羽さん……確か汜水関を守っていた憎き輩がそのようなお名前だったような」
「多分、それ」
「まぁ、でしたらこれはおチビさんからの手紙ね。読まずに捨ててしまいなさい」
「お気持ちはわかりますが一度お目を通した方がよろしいかと」
「あら、その言い振り、貴方は中身をお見になったの?」
「ハッ、僭越ながら文醜様の治療を行った際にそちらの手紙を見つけたのも私です」
「そう……わかりました。そこまで言うなら読んで差し上げても良くってよ」
そう言って手紙を読み始め……袁紹の顔が赤くなったり青くなったり無表情になったり笑顔になったり悲しそうになったり寂しそうになったりと百面相を披露し、そして何やら諦めたような表情を浮かべる。
「ハァ……全く、昔からあのおチビさんには勝ったことは少ないですけど……今回も私の負けのようですわね」
袁紹はもう一度大きな溜息を漏らし——大きな声で宣言する。
「撤退いたしますわ!すぐに準備なさい」
「しかし、撤退と言っても渡河するための船が……」
「それは問題ありませんわ。それより早くしないと——あの髑髏チビさんの手下が近づいてきますわ?!」
夏侯淵が間近まで迫っていた。
ふむ、袁紹ざまぁ達は無事逃げおおせたようじゃな。手配はしておったから逃げてもらえんと困るがの。
おかげで華琳ちゃんが不機嫌なようじゃが……まぁそれはいいじゃろ。不機嫌なのはいつものことじゃ。(自分が主な原因)
「さて、これから袁紹ざまぁにはしばらく頑張ってもらうとして……劉備達も随分頑張っておるのぉ」
厳顔、黄忠(ついでに魏延)を仲間に引き入れたことで益州攻略はスムーズに進み、州都成都の目前まで迫っておるようじゃ……ん、今、続報が届い——なんじゃと?!
「まさか……張任が暗殺されたじゃと」
最後の迎撃に出ようと張任と張松が出撃しようとしていたと報告があったが……まさか……まさか張松が張任を暗殺するとは、思いもせんかった。
一応表向きは張任が病気により急死となっておるが……もしや張松は始めから劉備軍と内通しておったのか?だから孫策達が成都に迫っておる時に……いや、益州南部が次々寝返ったのも張松が事前に根回ししておったから、なのか?
これは調べておかねばならんの……しかし……気に入らんのぉ。邪魔者を排除するのは吾も用いる手段であるから同じ穴のムジナであるが、忠臣を暗殺するような存在は気に入らんのぁ。