第百七十五話
「順調ですね。華琳様」
「ええ……そうね」
戦況を確認して予想通りの結果を得て満足そうな、それでいてどこか不満げな表情を浮かべて曹操に話しかける荀彧。
しかし、その曹操が返したのは生返事……この反応が荀彧の不満さを含むことの正体でもある。
「華琳様、大丈夫ですか?ご気分が優れないようですが」
「なんでもないのよ。秋蘭」
曹操は誤魔化すように言ったが夏侯淵は、かなり気合いを入れて挑んだ関羽殿との闘いに敗北して物別れとなったことを未だに引き摺っていると思っているが事実はもちろん違う。
(いったいどういうことなの。あれから美羽のことが頭から離れないなんて……)
ここのところ、日常的に時折、夏侯姉妹や荀彧との閨の中ですら偶に袁術の顔が思い浮かぶ。
それを感じ取って夏侯淵が心配し、夏侯惇や荀彧は不機嫌になっている。
(本当に何なのよ。今更、情でも湧いたというの?随分前から美羽とは戦わなければならない……いえ、死力を尽くして戦いたいと思っていたのよ。捕虜にできれば玩具として飼ってあげる程度は思っていたけど、おそらく戦場の中で殺すことになるだろうと覚悟していた……なのに、何なのよ。嫌われるって言われただけで——)
また不愉快な思いが沸いて来たので慌てて目の前の仕事に思考を移す。
曹操はこの不愉快な思いは仕事に忙殺されている状態なら湧いてくる回数が極端に減る(なくなりはしない)ことを自然と自覚し、彼女らしくなく、仕事へと逃げることとなっている。
自他共認める天才、曹操が仕事に専念しているためか、曹操軍の戦果は全て『予想された通り』になっている。
戦争というものは水物であり、予想通りな結果となることなどほとんどない。もちろん降伏などは予想できるが、それは戦った結果ではないので省略する。
つまり、戦争の結果など本来予想できないものであるにも関わらず、曹操達は全てを読み切っているのだ。
もちろん曹操だけの力ではなく、夏侯姉妹を始めとした荀彧や郭嘉、その他大勢のモブ……ゲフンゲフン、有能な将が数多くが各々の実力を遺憾なく発揮した結果であるが、やはり中心にいるのは曹操であり、一番働いていたのは湧き上がる何かから逃げていた曹操なのだ。
これによって日頃から身近にいる夏侯姉妹や荀彧を除いた将達(郭嘉を含む)は、何か悩み事があるようだが、曹操の能力が最大限発揮されているようだから問題ないかという君主の思いはまるっと無視した認識で落ち着いている。
君主の気持ちよりも戦争にどれだけ少ない被害で勝つか、それが重要なのだ。
実のところ、袁術から受けている物資は期限付きの無償提供で、期限を過ぎればそれ以降の物資は有償となり、今受けている水準を維持しようものならすぐに資産を上回り、税収すらも上回り、負債となることを全員が承知しているのだ。
まだ期限までには十分な時間はあるが、先程も言ったように戦争は水物である以上はいつ思わぬ事態に陥るかわからないのだから余裕はあっても困ることはないのだ。
せっかく領地が増えても、それを上回る負債など誰が好き好んで背負いたいと思う者がいるはずもなく、多少君主に不具合があろうと将来の借金地獄から比べれば小さいことである。
ちなみに、曹操や領地が破綻した場合、連帯責任として臣下の資産まで没収される契約となっていることを告げておく。
「予定では麗羽と戦うのはもう少し先だと思っていたのだけど……予定より早くなりそうね」
何とか湧いてくる何かを追い出して目の前の報告書に目を通して荀彧と意見をすり合わせるように言う。
「はい。まさかあの泥舟を支援するような者が現れるとは思いもしませんでした。やはり敵同士になったとはいえ、袁家であるため最終的には見咎めなし、そこまでいかなくてもいくらかは生き残ると思っているんでしょうか?」
予定では袁紹は兵士も物資も集まらず、本拠地の近辺でもう一度決戦するはずだったのだ。
しかし、それが突然商家達が支援を始めたことにより予想以上に早く軍備を整えている。
もちろん、袁術の仕業であり、その商家達は元々袁家と懇意であった商家を商会が内側から乗っ取ったものであるのだが、曹操達はさすがにそこまで把握することはできなかった。
「さあ、どうかしらね。麗羽は、あれはあれで器が大きいのは間違いないし……それになにより運があるのよ」
運などという曖昧なもので片付けたくはないが、世の中、運の良さというのは明確にあるのだ。
風が吹けば桶屋が儲かるというのは本当の話であり、それを体現している身近な存在が二人いる。
それは袁術と袁紹である。
袁術は漢王朝を(本意ではないが)手中に収め、袁紹は敗北必至の状態ではあるが、その持ち前の運は幼少の頃から抜け出して遊んでいた賭博場で目の当たりにしている。
この商家達の動きがその運の範疇であるのかどうか、曹操にはわからないでいた。