第二十二話
<孫策>
母さんが逝ってから大変だった。
今まで従ってきた家臣や兵士達の半分は故郷に帰ったり、別の仕官先を探したりと離れていった。
それでも千を超える者が残ってくれたことにに感謝する気持ちでいっぱいだったんだけど……問題は軍資金と物資だと口うるさい幼馴染にして我が子房、冥琳がうるさい。
家臣団を抱えるには志(こころざし)だけでは駄目、何よりもお金と……わかってるわよ。でもそう簡単に解决するなら問題になってないわよ!
と言い返したら冥琳の実家である周家が支援してくれると言ってくれた。母さんが死んだ今でも続けてくれているのは有難すぎて涙が出た。
そのおかげもあって私達の周辺にいる豪族達は襲ってこなかった。さすがに少数で周家を敵に回すのは得策じゃないと動かなかったみたい……全部冥琳の言ってたことなんだけどね。
ただし、冥琳はそれでもなお、資金も物資も足りないと現実を突きつけてくる。
母さんもそうだったけど私も金策の類は得意じゃないし冥琳は得意というか本領といえるんだけど冥琳一人では限度があって、泣く泣く家臣を半分にすることになった。
ついてきてくれると言った者達に申し訳ない。
資金繰りに二人して悩んでる時にここ最近見かけなかった呉景さんと孫賁さんが駆けつけてきてくれた。
そしてその頃母さんと伴に闘った黄蓋が目を覚ました。
黄蓋は十人ほどの兵と母さんの亡骸を携えて帰還していたが、帰って来てすぐに倒れてしまったのよ。
医者に見せたところ毒矢を受けてしまい、生死の境を彷徨ってたのよ。
黄蓋から母さんの最後を話を聞き、私達がこれからの事を相談すると「当てがある」と言ってついて来てみると最近何かと噂を聞く北荊州の南陽郡じゃない。
後で聞いたら呉景さん達はここで働いてたんだって、そりゃ見かけないわけね。でもなんでこんなところで?そりゃ揚州よりは都会だから仕事はあるでしょうけど……と言ったら冥琳に「将にどんな仕事させる気だ」と叩かれた。
ただ、呉景さん達がとても苦々しい表情を浮かべてたんだけど……まさかね。
それにしても……
「あれがここの主なの?」
ちっちゃくて可愛い子だったけど太守としてはどうなのよ。
見かけで判断するつもりないわよ?でも威厳の欠片もないし、もうちょっとこう…欠けている部分が多すぎてどれを言ったらいいか分からないけど色々あるでしょ。
街は活気があっていいんだけど、あんなちんちくりんが頭じゃすぐに限界が来るんじゃないの。
「これ、このような誰が聞いとるか分からんような場所で袁術様をあれなどと言うでない」
「そうです。少なくとも宮内では駄目ですよ。絶対駄目です」
何か孫賁さんがめっちゃ震えてるんだけど何があったのよ。
「もう聞いちゃったんですけどねー」
「ひいぃ」
いつの間に…確か案内役の張勲だったかしら…って孫賁さんの怖がりようが半端無いんだけど本当にどうしちゃったの。
「今回は注意した事ですし初回という事も加味してで免除してあげますけどぉー今度は容赦しないぞ」
な、なんか大して強そうにもないのに嫌な予感がするわ。
冥琳に目を向けると——
(あれを敵に回しては面倒だ)
と視線で返答があった。
さすが親友、私と同じ判断か。
「ええ、今度から気をつけるわ」
「約束ですよぉーとは言っても守らなくてもいいですよ?…………どうなってもいいなら」
まさか最後の一言で一瞬とはいえ私が気圧されるなんて…本当は出来る人なのかしら、何処からどう見ても弱そうなんだけど。
「次回からどうなるかはそこのお二人に聞けば分かるので聞いておいてくださいね。ではお風呂に案内するので付いてきてくださいねー」
で結局何があったのよ。
孫賁さんの怯えようが尋常じゃないし、よほどの事をされたんでしょ。
「いえ、あのその…」
「こやつ袁術様の陰口を叩いておったら食事の量を減らされたり洗濯物を一週間放置されたり鎧がいつの間にか軽い衝撃で脱げるようになっておったり——」
度の過ぎた子供の悪戯じゃない。そんなに怯えるなんて同じ孫家として情けない。
しかもすっごい地味——
「それに懲りずに言い続けておったら肥溜めに落とされたり書類仕事が雨のように降ってきたり訓練中に真剣が降ってきたり食事に致死量寸前の毒が仕込まれておったり朝起きると布団が濡らされておねしょしたという噂が流れたりなど、まぁ他にもあるがとりあえず酷い目にあったのじゃ」
ではなかったわね。
色々あるけど毒とおねしょの流言なんて流されたら本当に人生が終わっちゃうわよ。うん、孫賁さん、情けないとか言って悪かったわ。
「伯符、迂闊な発言は気をつけるんだぞ。私もさすがにおねしょした等と噂される者に仕えるのは苦痛だ」
「私だって嫌よ」
戦場で殺されるならともかく社会的に殺されるなんてまっぴらよ。
それにしても本当にえげつないわね。
「さて、ここがお風呂になりまーす。旅の汚れを落としてください」
「む、ここは以前使っていた風呂場と違うな」
「こちらは正式に雇用した方のみが使えるお風呂なんですよーつまり今回は客人として使えますけど次回からは皆さん以前使っていたお風呂になりますよ」
ではごゆっくり〜、と張勲は軽い足取りでいなくなる。
「言っておくが張勲は全てを取り仕切る魯粛様に次ぐ立場じゃからな。あまり失礼な言動は慎め」
えー、どこからどう見ても凡人じゃない。覇気もないし腕も立つようではないようだし、むしろ一兵士と言われた方がしっくり来るんだけど。
「あやつの本領は袁術様の為だけに発揮されるのだ。主に悪知恵で、だがな」
なるほど、冥琳担当ね。任せたわ。
「否はないが……雪蓮も気をつけるんだぞ。あのような者は蛇のように執念深いと相場は決まっている」
「大丈夫よ。私だって分別ぐらいつくわ」
「本当かのう」
何よ、私がそんなに信用出来ないって言いたいわけ?
「張勲さん怖い張勲さん怖い」
「ところで呉景さん、孫賁さんがおかしくなってるんだけど」
「うむ、この話題に触れるといつもこのような感じになってしまうのじゃ。全く困ったものよの、確か袁術様が『とらうま』などと言っておったが…」
まぁそれは放っておけば元に戻る故とっとと風呂へ行くぞ、と言い残して先へ行く呉景さん…孫賁さんの扱いが雑過ぎない?それに虎と馬ってどういう意味よ。
「おお、これは…」
先に入った呉景さんの声が聞こえてきた。
そんなに凄いお風呂なのかと思って覗いてみたら本当に凄かった。何が何だか分からないけど。
「ふむ、ここに説明書きがあるぞ。その櫓から斜めに板が出ているのは滑り台という遊具で斜めになっている板を滑って遊ぶものだそうだ。ただし着水地点に人が居ないことを要確認っと…そちらの色とりどりの湯は薬湯でそれぞれ保温、保湿、美肌、発汗、ただれなど様々なものに効くらしいぞ。注意事項として飲むものではありませんと書いてあるぞ雪蓮」
うっ、何よ。肌にいいなんて言われたら飲みたくなるじゃない。
「全く、おぬしは小さい頃から変わっておらんのー無駄に行動力があるというか好奇心旺盛というか猪突猛進というか」
「悪かったわね。どうせ口より先に手が出るわよ…この塵芥が浮いてる湯船も薬湯の一種なの?」
「塵芥って雪蓮…それは柚子の湯らしいわ。風邪予防と腰痛と——神経痛というのはよくわからないけれど風邪を防ぐというのが本当なら凄い事だ」
へーそれが本当だったら凄いわね。
風邪なんて体力がない子供がよく引いて死んじゃうって話だし…ああ、これってもしかして袁術ちゃんの為にあるのかしら。
「この天井から落ちてきてるお湯…どうやってるか気になるわね」
「それは打たせ湯と言って首筋や肩、腰を打たせて患部を解(ほぐ)してくれるそうだ」
至れり尽くせりってやつね。というかどんだけ金かけてんのよ。
あ、ちゃんと普通の蒸し風呂もあるのね。
「本当に凄いお風呂ね……母さんも入れてあげたかった」
「「………」」
もうしばらくは泣かないって決めたのに、袁術ちゃんがあんなこと言うから………また涙か止まらないじゃない。
「雪蓮……」
大丈夫、大丈夫よ。これが最後の感傷よ———孫呉に返り咲き、母上を追い抜くまで後ろは振り向かないわ。母さんも望んでないもの。
「そうか……とりあえず風呂に入るとするか」
「そうね。せっかくの豪華なお風呂だしね。と思ったらもう呉景さんといつの間にか立ち直った孫賁さんは入っちゃってるし黄蓋まで……」
「おなごがいつまでも裸で突っ立っておったら体に悪いぞー…はぁーそれにしてもいい湯じゃー」
色々と言いたいことがあるけどとりあえず湯船に浸かろ——
「こら、孫策!風呂に入る時は体を先に洗わぬか!」
「え、そんな規則あるの」
「うむ、なんでも袁術様が綺麗好きで普通の兵士でも一日一度は水浴を推奨しておる。だから客将にも風呂が開放されておるのじゃが袁術様曰く『皆で使う物じゃから綺麗に使うのじゃ』だそうだ」
へー、袁術ちゃんは本当に綺麗好きなのね。
普通民はもちろん兵士、いや、将であっても多くて二、三日に一回、しかも水で汗を流すか蒸し風呂程度なのにお風呂を毎日なんてありえないわ。
こんな無駄な贅沢な使い方するなんてこういうところは偉い人っぽいわね。
ご丁寧にも壁には入浴手順が書かれておりその通りに体を洗い一緒に湯船に浸かる。
「しかも石鹸まで用意されてるなんて本当に贅沢ねー中央じゃこれが普通なのかしら」
「いえ、以前朱儁様の邸宅に二泊ほどお邪魔したのですがさすがに石鹸まではありませんでした。そういえば客将用の風呂にも石鹸が置かれてました」
「ふーん、朱儁って言ったら今中央で活躍してる三人の内の一人じゃない。そんな偉い人でも出せないっていうのにここでは客将にまでねー…太っ腹なことで」
「それだけじゃないぞ」
どういう事よ冥琳。
「気づかないのか、この石鹸は普通に売っているものではないぞ。この石鹸を嗅いでみろ」
「…これって蜜柑の香り、よね」
「うむ、どうやら何らかの方法で石鹸に匂いを付けているんだろう。正直無駄な事甚だしいが袁家の人脈を使えば富豪達には売れるだろう」
つまりこの贅沢なお風呂はこの石鹸で造ったわけ?何とも無駄が好きねー。
それを客人に使わせるために用意するなんて格の差を魅せつけるには効果的なのは認めるけどね。
「いや、この匂い付き石鹸は一角にしかすぎんだろうさ。実際我等の地でも売られていた脱穀用具の千歯こきは南陽郡発祥だと聞いた。つまりそれだけの知恵を持つ人間がいるということだろう」
ああ、あの櫛みたいな農具ね。
あれが出来たおかげで随分脱穀が楽になったって言ってたっけ。
「多分それは魯粛様ですね」
「間違いあるまい」
魯粛?聞いたことない名前ね、やっぱり張勲みたいな人なのかしら。
もしそうなら仕官先を改めて考えなくちゃいけないわね。
「魯粛様は袁家の臣下の者を始め、兵士、民すらも『隠れた名君』や『影の支配者』、『むしろ隠れてない支配者』と呼ぶほどの名士で南陽最高権力者と言って過言じゃありません」
「孫賁さん、そんなこと言ってて大丈夫なの?張勲に聞かれたら…」
「それは大丈夫じゃ。袁術様を直接汚すような事を言わなければ何もしてこん。しかも袁術様本人に言ったとて問題ない事もわかっておるしな。袁術様曰く『そんな凄い者の主である吾はもっと凄いのじゃ!』とのことじゃ。まぁ、あながち間違っておらんがの」
実権を臣下に奪われても気にしないのは器が大きいと見るか、それともただの馬鹿と見るか…明らかに後者なんだけど繁栄してる街を見ると一概にそうとは言い切れない所ね。
冥琳はどう思う。
「直に会ってみないことには正確なことは言えんがその魯粛という者は注意が必要なのは間違いないだろう」
そうよね、袁術ちゃんより気をつけないといけないのはその魯粛って人みたいね。でも……なぜかしら、袁術ちゃんも…いえ、袁術ちゃんこそ気をつけないといけない気がするのは……まぁ、勘なんだけどね。
「ところで黄蓋……貴女、さっきから黙ってるけど何してるのよ」
「いやーまさか風呂に酒があるとは思いもせなんだ」
「ちょ?!私にもよこしなさいよ!」
「それで……孫堅の……炎蓮の最後を聞かせてたも」
宴の前に黄蓋だけを呼び出し、どうしても聞いておきたいことを聞いておくことにした。
「っ?!堅殿の真名を?!」
「うむ、受け取っておった。しかし吾は大事な物は宝箱に入れておく主義なのじゃ」
そういえばあの時黄蓋はその場に居らんかったか……確か街にこっそり二人で抜け出して子供達と遊んでおった時じゃったな。
「……堅殿、真名を預けるならもう少し時と場所を選んで欲しいものじゃな」
気持ちはわかるぞ。真名を預けるとは神聖な行為である。元の世界で言うとプロポーズがもっとも近いじゃろう。
それは真名を預ける方が年齢を重ねているほど重みが増す。
年齢とは生きている時間であり、人との繋がりが多くなる。つまり人との繋がりが薄く広くなっていく。そんな中で真名を許すほどの繋がりと言うのはかなり特殊な関係じゃ。
親子、師と弟子、主従関係などじゃな。主従関係でも忠臣、義兄弟などといった厳選した上で預けるのが普通じゃ。
逆説的に言うと若い内は割りと親しいと真名をポンポン預ける者もおる。原作で真名を簡単に預けるのはそのあたりにあるようじゃな。
そもそも劉備は劉家の血筋か怪しく、孫家も孫子こと孫武の末裔だとか言っておるが自称で証拠はないから意識は薄いのかもしれんな。
……ん?曹操以外は出自が怪し過ぎるじゃろ。よく皇帝までのし上がったもんじゃ。
つまり何が言いたいかというと……なぜ吾に孫堅が真名を預けたのか、ということだ。
「ちなみに理由は吾もわからんぞ。まぁ預けられたからには吾も預けたんじゃがな」
まぁ友としての好感度は結構高かったからのぉ。
「……堅殿が真名を預けたのは本当じゃな?」
疑いのもわからなくもないが……
「そもそも孫堅の真名は日頃誰も呼ばんじゃろ?吾が知るわけなかろう」
実際諜報活動をしておった影達にも聞いて回ったが孫堅の真名を知る者はおらんかった。
孫策や周瑜なんぞは日頃から呼び合っておるから知られておったが、孫堅は本当に限られた者で、しかも他者が存在しない時にしか使わなかったようじゃ。
親子関係でも通常は母さんや母様などと呼んでおったしの。
「言われてみればそうじゃな。疑って悪かったの」
「なんのなんの、家臣の中でも限られた者しか預けられておらぬ真名を他所の太守が呼べば疑うのは当然じゃよ」
納得してくれたようでよかったぞ。これで納得せずに言い争いになれば孫家滅亡一直線じゃからな。七乃的な意味で。
原作では武官がおらんかったから孫家に頼っていた。頼らざるを得なかった。しかし、今の吾らは未熟さはあれど万夫不当の豪傑がおるしの……そもそも紀霊がおる段階で随分話が違うがな。
「さて、納得してもらえたところで……最後はどうじゃった」
「……」
黄蓋は憤り、怒り、悲しみ、恨み、無念さなど様々な負の感情を込めながらも語ってくれた。
そう、か……炎蓮は味方に裏切られて死んだか……無念じゃったろうなぁ。
戦場でありながら武人としてではなく、政治家として死んだか。
「そして儂に……嬢ちゃん……おぬしを頼れと」
「……借金を返さずにおらんなったくせに……最後の最後まで……吾を頼るか」
いかん、もう泣くな。
吾は前を見る。
例え孫策に殺される未来であろうと、華琳ちゃんに殺される未来であろうと、劉備に殺される未来で……いや、劉備に殺される未来は思い描けぬのじゃが、万が一もあるからの……あろうと、前を向け続ける。
炎蓮を見殺しにした。吾にできる唯一のこと。
孫策、孫権、孫尚香を守れるとも言えぬし殺さぬとは言えぬし、その家臣も同じじゃ。支援することはできるが敵になることを選べば不可能じゃ。そもそもそこまでのことを炎蓮が求めているわけでもなかろう。
「ま、全く、せ、世話が焼けるやつじゃ」
「……申し訳ありません」
震えてしもうた吾の声に何かを察したのか、黄蓋が堅い口調で謝ってくる。
ああ、本当に死んでしもうたんじゃな。