第二百三十九話
「おお、目的の温泉宿が見えてきたぞ」
主要道路から外れ、多少荒くなった道路を進むことしばらく、更に細い道路に外れてやっと見えてきたのじゃ。
なかなか遠いかったのぉ。
「「「「…………宿?」」」」
皆の疑問の声も仕方ないじゃろうな。
まず見えるのは山の頂き、そして少し下って壁、また少し下って壁、またまた下ってまた壁、またまたまた下ってまたまた壁がある。
他にも櫓がいくつも組まれ、投石機や床弩などの姿もちらほら見えておる。ちなみに見えておるのはわざと見せておるんじゃ。迂闊な民間人が近寄らんようにしておるのじゃ。
「お嬢様、あれは宿ではなく砦というのでは?」
「温泉があって寝泊まりすることを目的としておるから温泉宿で間違いなかろう?」
(((絶対違います)))
と表情が物語っておるが、あえて誰も口には——
「さすがお嬢様!平然と砦を温泉宿呼ばわりするなんて、よっ!世界の大富豪!大胆不敵の蜂蜜嬢!」
「ぬははははっ!もっと褒めても良いぞ!」
さすが七乃、他の者達とは一線を画す存在じゃな。良い意味でも悪い意味でも。
「それにしてもこのようなもの、一体いつの間に……」
「司馬家が仕えて余裕ができ始めた頃に影達に頼んで建築してもらったのじゃ。ああ、ちなみにこれを設計したのは吾じゃぞ」
「……あの頃、影達が妙に騒がしかったのはこのことででしたか」
魯粛も吾の動きに気づいておらんかったのか、誰にも知られぬようにと命じておったが……影達もなかなかやるではないか。
「ついでに言えば、この物々しさは吾等が帰還した後に交代で来る帝も利用することになっておるからじゃ」
だからこそ吾直々に設計し、極秘裏に築き上げ、あの物々しさなわけじゃ。
ちなみに戦力は砦内に街があり、そこの住人……厳選に厳選を重ねた者達とその家族達が全て戦力で、数は訓練された兵士出身が八千、その家族である準戦力が一万五千ほどである。
「なるほど、それならば納得です」
まぁ正直に言えば仕事の息抜きにちょっと箱庭ゲーム的に砦を作って——宿屋を作ってみたくなっただけなんじゃがな。
今までの漢王朝が築いた慰安所などもあるが……誰が作ったかもわからんものを信用するには、ちと吾の身が大きく成りすぎたのじゃよ。
今の政庁や宮殿などは史実と違って燃やされたりしていないので本当はあまりよろしくないのじゃが、内部の作りを変えることで誤魔化しておる。
権威ある建物を建て直すとなると手続きや資材集めが面倒なんじゃよなぁ。伝統というものを無視すれば今日明日の内から取り掛かることができるんじゃよ?しかし、石畳はこの産地の〜、室内に使う柱の木材はどこそこの〜、外の柱は〜、などと本当に嫌になるぐらい多いんじゃよ。
まぁ揃えることは簡単なんじゃよ?吾の財力を持ってすれば?しかしのぉ、それだけ面倒ということは工期が一体どれだけになるのか……そしてその引越し作業がどれだけ掛かるのか……そしてそれに必要な儀式がどれだけあるのか……頭の中で考えただけで力尽きた吾達の姿が幻視できるぞ。
それはともかく、サプライズは成功したようで何よりじゃ。
温泉宿の城門に近づくと吊り橋が降り、城門が開くのが見えた。あ、吊り橋の下には堀があって川も流れておって温泉の影響で若干ではあるが温かったりするそうじゃ。
「お待ちしておりました。袁術様」
「うむ、しばらく世話になる」
迎えに出てきたのはこの温泉宿の責任者として配した孤児の一人であった。
能力に秀でたものはないが、忠誠の厚さで採用したのじゃ。
「貴重品ではないお荷物などはこちらでお預かりします」
「良きに計らえ」
「ハッ」
宿の中では当然じゃが吾等は武装したままでも問題ない。
無いとは思っておるが、工作員や暗殺者などがおらんとも限らんからの。そもそも吾の側近は日頃から武装は帝がおっても武装を解くことはないので外で解くなぞありえん。
まぁ先程言ったように宮殿や政庁などよりもこちらの方が安心できるんじゃが、まだ初回利用であるし、油断大敵というやつじゃな。
「うむ、よくできておるな」
ここは吾の部屋として用意されたものじゃが……そこには和室、それも現代で言う旅館の和室が見事に再現されておる。
畳を開発して正解であったな。
真新しい畳のいい匂いが遠い昔の記憶を刺激するのじゃ。
「ありがとうございます」
この部屋は吾専用の和室あるわけじゃが、他にも吾専用の洋室、中国室(変な書き方だが他に思い浮かばない)、現代モダンの部屋が用意されておる。
あ、別に吾だけがこれだけの部屋があるわけではなく、吾が普通以上に働いておることを知る者達の分と予備に十人ほどの部屋を作っておるはずじゃ。まぁ吾の部屋より狭いんじゃがな。
と言っても吾の部屋も決して広いわけではない。これは謙遜でもなんでもなくて本当に広くないのじゃ。
実際——
「このように手狭で本当によろしかったのですか?我々の部屋を削ってでも……」
「おぬしらはここに暮らしておるんじゃからそのようなことをすればストレ……精神的に負担が大きくなるじゃろ。そんなことを気にするでない」
このように責任者が不安に思うぐらいに狭いのじゃ。わかりやすく日本風に言えば、部屋備え付けの風呂とトイレを込みにして二十畳と言ったところじゃな。
風呂に五畳、トイレに二畳と考えれば残り十三畳で、二部屋六畳ずつと一畳と考えればそれほど広くはなかろう?
宮殿の私室と比べると四分の一以下じゃぞ。……まぁ、それも書類で殆ど埋まっておるんじゃがなー