第三百二十六話
「しつこい奴らですね!いい加減諦めてくれてもいいんですよ!」
ここのところ逃走生活の疲れで姜維の口から愚痴が漏れる。
そして漏らした後になって周りを確認し、部下が誰もいないことを確認してホッと胸を撫で下ろす。
指揮官が愚痴を漏らす行為はそもそも良くない上に、今の現状は兵士にとっては姜維以上に不満を抱いていて当然の環境だ。こんな言葉を聞かせては更に士気が下がりかねない。
「あのお化けさえいなければ、なんとか撃退できるんだけど」
姜維の率いる兵士達は涼州騎兵。
基本戦術は一撃離脱だが近接戦闘も強く、その分だけ強さに対するプライドも高い。
一撃離脱のような戦術な逃げは認められるが、今のように交戦することもなく……弓を射ることすらもせずにただただ逃げの一手というのは性に合わないのだ。だからこそ姜維は略奪優先のために戦力を温存したいところを被害が出ることを承知で華雄とは戦闘を行い、撃退したのだ。
張遼だけなら適度に戦って適度に逃げれば士気を維持する自信があるが……それが許されない存在が近くにいるため、それも叶わない。
「よく強い人を虎とか獅子とか言うけど、あれは龍とか麒麟とかそんな類です。天変地異や自然災害でも可、です。動物に喩えるなんて烏滸がましいです」
と、全身が鳥肌と冷や汗と脂汗で濡れるような気配を放つ呂布を評する。
あんな存在が出てきてどうにかできる気がせず、逃げるだけで精一杯の状態だ。しかし略奪品がなければ劉備が牙をむく。
このままでは駄目だと姜維はわかっているが手持ちの札ではどうにもならない。
華雄、張遼との戦いで数を減らしてしまったため部隊を分けることも満足にできない。
「ただ、部隊を分けた所で成功するかどうかは別問題ですけど」
相手も二手に分かれてしまえばいいからだ。
呂布は論外でも張遼の対処すらも姜維が行わなければ敗北は必至だ。
「一応援軍要請を出したけど……期待できないですね」
そもそも援軍要請を応えられるのは北郷の軍と劉備の軍に関しては詳細は知らないが劉備が軍を出す気があるなら最初から参戦していただろう。
そして本命の北郷の軍はこれ以上の兵士を減らせば領地内の治安が悪化してしまうことを姜維はもちろん知っている。
つまり援軍はない。
「……そうだ。ここであんな化け物と戦うぐらいなら異民族を相手にした方が楽……ですよね?」
兵站の維持、略奪品を送るのが大変という問題があるにしてもそもそも仕事ができないのでは話にならない。
略奪どころか全滅も目前だ。
「よし、今から西へに行軍――」
姜維が方針を決めて命令を出そうとした瞬間――
「……狙い撃つ」
一矢が放たれた。
その矢の速さは常人のものと比べものにならず、弓の名手と呼ばれる夏侯淵、黄忠のそれをも上回る。
姜維がそれに気づいたのは着弾寸前であり、回避は不可能だった。しかしなんとか体を動かして避けようと試みる――が――
「―――――ッ!」
声はなかった。
その代わりに乗っていた馬から弾かれるように……それこそ車に撥ねられたかのようである。
そして宙から地へ。
一回、二回、三回、四回とバウンドしてやっと停止する姜維の体はピクリとも動かない。
「やったんか?!」
いくら規格外の武を持っているとはいえ、こちらに気づかれる前にこの対象が見えない距離での狙撃をするという呂布の無謀な作戦が成功したのか、と張遼は驚きの声を上げる。
しかし、張遼のセリフが悪かった。
「……残念。急所、外した」