第三百三十九話
「久しぶりの揚州……なのに思ったよりも感慨がないわね」
徐州軍を率いて上海入りした孫権が呟く。
それはそうだろう。上海は袁術の手によってほぼ一から建設されたもっとも若い都市であり、孫権がいた頃には存在しない都市なのだから何一つ感慨を得られる要素はない。
ついでに言えば孫家の出身地はもっと沿岸を南に下った先であり、孫堅が統治時代に拠点を置いたのは柴桑は南西に位置する。
つまり、後は孫家の悲願という思いだけなのだが――
「すっかり私も染まったみたいね」
孫家の悲願などより仕える主への思いが強いことを改めて実感し、納得した孫権……だが本人は蜂蜜に染まったと思っているが、最近の言動を鑑みると明らかに黒や闇、狂気に染まっている。
「この後は南下して先に討伐に出ている関羽将軍と合流するんだったわね」
「ハッ、その通りです。ただ、上海から関羽将軍への兵糧の護送依頼が届いていますがどういたしますか?」
副官はそう言って詳細が書き込まれた書類を孫権に渡す。
「こちらも余裕があるわけではないし……この数ではお嬢様の定めた戦術に反する。定められた規則に則り手配するように伝えなさい」
「了解しました」
現代の軍隊と違って統率者の発言権が圧倒的に強い。
それは情報伝達速度が遅いことが起因しているが、この時代に解決するすべはない。
他にも戦術をマニュアル化するには将の質、兵の質、中華という広大な舞台、戦力を均一化することができる兵器(平たく言うと銃)がないなど不確定要素があまりにも多く絡みすぎることで不可能なのだ。
更に袁術は遊戯や戦略という観点ではともかく戦術に精通していると自身では思っておらず、基本は才ある者に任せる方針だ。(もっとも袁術の思いつきで色々指示されることがあるが)
そんな袁術だが一つだけ推し進めた基本となる戦術が存在する。
それは兵站の維持における輸送部隊の護衛部隊に関してだ。
輸送される物量に合わせて護衛部隊の数を増やしたのだ。
現代においては至って普通の考え方であるが、兵站という概念が薄いこの時代では現地調達(徴収というより略奪)が平然と行われ、兵站の重要性を理解しているとは言い難い。
お世辞にも将が優秀とは言いづらい袁術軍の強みは圧倒的資金力に基づく物量であるのは言わずとも知れたこと。
その強みを最大限活かすには速やかな物資の移動と安全性が重要であると袁術が定めたものだ。
にも関わらず輸送の護衛に出す兵士を減らすために孫権に輸送部隊の護衛を頼もうとするあたり理解度が乏しいことが伺える。
しかも依頼された護送は定められた比率から考えると孫権軍の数では物資量が圧倒的に多い。自身の輸送隊が存在しなくても足りないぐらいに多いのだ。
「こんな量を輸送していたら襲ってくださいと言っているようなものよ」
「その通りです。どうしますか?」
依頼を受けるかどうかは既に答えてある。なら副官は何を含ませたのか――
「調べておいて、もし叛徒共に繋がっているようなら――」
最後まで言わずとも副官は察し――
「御意」
とだけ答える。
袁術が定めた戦術を叛乱があったとはいえ、非常時ではあっても緊急時ではない現状で蔑ろにするような人物を交易重要都市の役職を与えるのはよほど他が優秀でない限りありえない。
蔑ろにするだけではなく、内通しているというなら――慈悲はないというのは孫権の瞳からハイライトが消えているところから察することができる。
「……さあ、待ってなさい。叛徒共。その首、お嬢様に捧げてあげるわ」
これを袁術が聞いていたら――――「そんなもん捧げられても困るのじゃ!」――――と言ったことだろう。
ちなみに袁術が戦術を練っている時に――
「もし鉄道があったら幼女な戦記の帝国みたいな内戦戦略ができたんじゃけどなぁ」
と言ったらしい。
つまり金の殴り合いなら勝てるということである。