第三百六十四話
「後方が安全になるのはいいのだけど、私達より先に鎮められたのはちょっと癪ね」
曹操は届いた書簡から目を離して軽いため息を漏らすがその表情は負の感情ではなく、うっとりとしたものだ。
見ていた書簡には揚州の動乱が――
「さすが関羽ね」
主に孫権の活躍で鎮圧されたのだが、曹操が目を引くのは関羽の名前があってのことだ。
曹操の関羽愛は深い。
とはいえ――
「それに孫権……か、確か美羽の侍女をやっている子だったわね」
さすがにお気に入りばかり見て功労者を見落とすことはしない。
曹操と孫権は面識こそあるがそれほど知っている仲というわけではない。なにせ孫権は仕事内容と役職が釣り合っていない者の代表で、方や州牧、方やほぼ頂点に立つ袁術の侍女とはいえ侍女は侍女であり、話す機会はほとんどなかった。
「護衛を兼ねた侍女かと思っていたけど、思わぬ伏兵ね……いえ、その気配はあったわね」
だが、その印象は自分と競う相手としては不十分というものだった。しかし、潜在的な才では劉備と並ぶ存在だと感じた。
とはいえ――
「あの子の下だと、ね」
厳密に言えば曹操自身も袁術の下にいることになる。だからこそわかることもある。
「わざとなのか本能的なのかわからないけど……まぁわざとなんでしょうけど私達を飼い殺そうとしているのよね」
曹操は自分と袁術は長い付き合いであり、そして頭一つ分抜き出ていると自負しているため対策されることは想定済みだった。しかし、他の牙を持つ者達も押さえることに成功している。
「今回の乱は……いえ、乱なんていうにはお粗末なものね。こんなものは私でも防げないわ」
乱とは大義を掲げて起こすものだ。しかし今回の揚州で起こった乱は黄巾ですら掲げていたそれを全く用意していなかった。故にただの犯罪としか言えないものに過ぎない。
簡単に言ってしまえば突発的犯行を大規模にしたものなのだ。そんなもの未然に防ぐことは不可能に近い。
「こちらとしてはとっとと終わらせたいところなんだけど……」
前線都市が機能し始めたことで被害こそ減ったが、諦めさせるには至っていない。
「まとまった数が叩けてないからでしょうけど……美羽からは面倒になったら撤退を条件に食料を渡していいって言われているけど、私の誇りが許さないわ」
誰にもわかる勝利を得てからでないと敗北したのと変わらない。被害を抑えることも大事だが、舐められないことも重要な外交の一つだ。
袁術的には食料程度で撤退するなら立て続けに起こった動乱によって増幅した仕事を前にすれば小さいことだと判断していたが、実質的敗北など曹操は認められなかった。